ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「なだめの供え物」の範囲 その1

「なだめの供え物」の範囲 ~神の怒りから解放されるのは誰か~ その1

「なだめの供え物」とは、人の罪を怒る神の怒りをなだめ、神と人の和解を可能にするいけにえのことです。旧約時代は、「全焼のいけにえ」がこの役割を果たしていました(レビ記1章)。

旧約時代の動物のいけにえは、キリストの予表です(ヘブル10:1)。十字架においてキリストは、人の罪に対する神の怒りを一身に受け、神に打たれました(イザヤ53:4)。キリストを信じる者は、その打ち傷のゆえに神と和解できたのです(イザヤ53:5)。

このキリストによる「なだめ」に関する箇所が、新約聖書中に4箇所あります。ローマ3:25、ヘブル2:9、Ⅰヨハネ2:2、Ⅰヨハネ4:10。

「限定的な贖い」シリーズでは、罪の贖い(赦し)の対象が「選ばれた人々」だけであることを見てきましたが、「なだめの供え物」シリーズでは、神の怒りから解放され、神と和解することができる人々が誰であるかを、上記の各聖書箇所を通して学びます。今回はローマ3:25から見ていきましょう。

●ローマ3:25
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」

この新改訳聖書の訳には、原文に近い表現に直したい箇所があります。「信仰による」という部分です。

「~による」と訳されている言葉はdiaというギリシャ語の前置詞ですが、この言葉は「~を通して」という意味の言葉なので、下記の欽定訳のように「through/~を通して」と訳すべきです。
 
KJVRom 3:25
Whom God hath set forth to be a propitiation through faith in his blood, to declare his righteousness for the remission of sins that are past, through the forbearance of God;

そうすると次のようになります。

「神は、キリスト・イエスを、その血による信仰を通してのなだめの供え物として、公にお示しになりました。」

「信仰を通してのなだめの供え物」ということは、信仰を持たない人は「なだめの供え物」の効果を受けられないことを意味しています。そこで新共同訳はその点をわかりやすくするために、以下のように訳しました。

新共同訳ローマ 3:25
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」

キリストは十字架で人の罪に対する神の怒りを静めましたが、その働きは信じる者(選ばれた人々)のためだったということです。信じない人に関しては、神の怒りは静められていません。そこで聖書の他の箇所は、次のように言っています。

「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(ローマ1:18)

一方、信じた人は神の怒りから解放されたので、次のように書かれています。

「神は、キリストによって、私たち(=信者)をご自分と和解させ・・・ました。」Ⅱコリント5:18

●まとめ
ローマ3:25によると、キリストによる「なだめ」の働きは、選ばれた人々のためでした。神は、選ばれた人々をご自分と和解させるために、彼らの罪に対してご自身が抱えている怒りをキリストに受けさせ、隔ての壁となっている自らの怒りを取り除きました。このキリストによる「なだめ」があったからこそ、選ばれた人々は神に近づくことができ、和解を得ることが可能になりました。
 
この「なだめ」の働きも、罪の贖い同様、神の一方的な恵みによります。ありがたいことです。