ダビデの日記

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「なだめの供え物」の範囲 その3

「なだめの供え物」の範囲 その3

「この方こそ、私たちの罪のための~私たちの罪だけでなく、世全体のための~なだめの供え物です。」Ⅰヨハネ2:2

現代のクリスチャンの多くは、この箇所を読むに当たり、「私たち」という言葉を単に信者という意味で理解していると思います。言い換えると、ヨハネは信者全般に宛ててこの手紙を書いたという漠然とした前提でこの箇所を読んでしまっているということです。
 
その読み方が、完全に間違っているわけではありません。しかし実際のところ、その前提は完全に正しいわけでもありません。その読み方が、上記の聖句の意味を相当ずらしていることは否めません。

●正しい解釈のポイント
1.ガラテヤ2:9に書かれているように、ヨハネユダヤ人に遣わされた使徒ですから、彼が書いた福音書や手紙の第一の読者、つまりヨハネのメインターゲットはユダヤ人です。ですからヨハネが「私たち」と呼んでいる人々は、民族的にはユダヤ人です。このことは、Ⅰヨハネの色々な箇所から検証できます。

2.「初めからあったもの」
ヨハネ1:1の「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」という説明からわかるように、「いのちのことば」とはイエス・キリストのことです。イエスを目で見、また手で触ることができたのは、ユダヤ人信者以外にはいません。ですからこの手紙で「私たち」とヨハネが言うとき、それはユダヤ人信者を意味しているのです。

3.「初めから持っていた古い命令」
2:7でヨハネは、「初めから持っていた古い命令」について述べています。「あなたがた」という言葉でヨハネが指している人々は、その古い命令を「すでに聞いている」と書かれています。
 
この「古い命令」とは、ヨハネ13:34でイエスユダヤ人の信者に与えている「新しい戒め」を指しています。(新改訳聖書をお読みの方は、「新しい戒め」の欄外を見ていただくと、Ⅰヨハネ2:7と書かれています。)
 
異邦人の信者は、イエス・キリストからそのような命令を受けていません。ですからヨハネが2:7で「あなたがた」と呼んでいる人々、つまりこの手紙の読者もユダヤ人信者です。

4.「父たち」
2:13の「父たち」に関しても同様のことが言えます。「あなたがたが、初めからおられる方を知ったからです」とヨハネは述べています。
 
新改訳聖書ですと「知った」という訳語のゆえに過去時制のように感じますが、原文ではこのギノスコーという動詞は完了形です。つまり「あなたがたは初めからおられる方を(以前から今に至るまで)ずっと知っている」という意味です。新共同訳はこの点を正確に翻訳しています。

新共同訳1ヨハネ 2:13
「父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。」

エスのことをずっと知っている人々は、ユダヤ人しかいません。ですから「父たち」というのも、ユダヤ人クリスチャンのことです。

5.「小さい者たち」
ヨハネは、「小さい者たち」が「反キリストの来ることを聞いていた」と言っています。マタイ24:24を見ると、確かにイエスは反キリストが来るとユダヤ人信者(弟子たち)に話しています。ですから、この「小さい者たち」というのもユダヤ人クリスチャンです。

このように、ヨハネユダヤ人クリスチャンに宛ててこの手紙を書きました。ですから、この手紙を正しく理解するには、この背景を念頭において各聖句を解釈する必要があります。

●Ⅰヨハネ2:2の解釈
「この方こそ、私たちの罪のための~私たちの罪だけでなく、世全体のための~なだめの供え物です。」

この聖句の解釈のポイントになるのは、「私たち」と「世全体」という言葉が誰を指しているかです。これまでの説明からわかることは、「私たち」とはヨハネ自身と手紙の読者のことで、すなわちユダヤ人クリスチャンです。

次に「世全体」という言葉ですが、もしこの言葉が地球上のすべての人々を指すのであれば、わざわざ「私たちの罪だけでなく」と付け加える必要はありません。「世全体」だけでユダヤ人クリスチャンも含まれますから、それだけで十分です。

しかしヨハネがこのような書き方をしているのは、「世」という言葉に現代の私たちが考えているのと違う意味があるからです。当時のユダヤ人たちは、「世」という言葉で異邦人を指していました。ローマ11:12、15が良い例です。

「もし彼らの違反が、世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにすばらしいものを、もたらすことでしょう。」

「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたなら・・・」

11:12でパウロは、「世界」(「世」と同じコスモスというギリシャ語)という言葉を「異邦人」と言い換えていますので、「世界」=異邦人という使い方がはっきりわかります。
 
しかも、ユダヤ人のつまずき(=イエスの十字架)が「富」となり「和解」となったのは信者に対してだけなので、「世界」「異邦人」は実際のところ「世界」の選ばれた人々、「異邦人」の中の選ばれた人々を意味しています。

ヨハネもⅠヨハネ2:2で、イエス・キリストユダヤ人クリスチャンの罪のためだけでなく、異邦人の中にいるすべての選ばれた人々のための「なだめの供え物」です、と言っているのです。
 
ユダヤ人の従来の概念では、メシヤはユダヤ人だけのメシヤでした。しかしヨハネは、イエスが他の民族のメシヤでもあることを強調しているのです。

この民族的対比の言及は、ヨハネ福音書にも表れています。
 
「ただ国民のためだけではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」ヨハネ11:52

「国民」とはユダヤ人のことです。「散らされている神の子たち」とは、世界の他の民族の中にいる選ばれた人々のことです。Ⅰヨハネ2:2とヨハネ11:52は文法的な構造もそっくりで、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを対比させるヨハネの考え方が鮮明に現れています。

●まとめ
というわけで、Ⅰヨハネ2:2の「なだめの供え物」も、ユダヤ人を含めたすべての民族の中にいる選ばれた人々のためのいけにえということになります。全世界に存在するすべての人間のための「なだめの供え物」ではありません。