ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「なだめの供え物」の範囲 その4

「なだめの供え物」の範囲 その4

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:10

●神の主導
この聖句でヨハネは、「なだめの供え物」としてイエスを遣わしたのは「神」であると述べています。神は、ご自分が選んだ者たちをご自身の怒りから逃れさせ、ご自分と和解させるために、イエスを遣わしてくださったのです。そしてその動機となったのは、私たちへの愛でした。

現代の多くのクリスチャンは、自分が信じたから救われたとか、自分が決断したから救われたと言って、救いの功績の一部があたかも自分にあるかのように考えますが、この聖句ははっきりとそれが間違いであることを示しています。

「私たちが愛したのではなく、神が私たちを愛し・・・。」
 
神が先なのです。父なる神の主導で、神の怒りを私たちからキリストに移してくださったからこそ、私たちは神と和解できました。神とキリストによる「なだめ」の恵みがなければ、私たちは未信者と同じように永遠に神の怒りの下にいつづけなければなりませんでした。
 
救われる前の私たちは神の怒りの下にあり、身動きが取れない状態にありました。私たちの罪ゆえの、神の義憤の中に閉じ込められ、私たちは自分の独力では信仰による応答などできない状態にありました。神ご自身が怒りのゆえに私たちに近づけないというのに、どうして私たちが神に近づいたり、神を求めたりすることができるでしょうか。私たちの応答よりも神の愛が先にあったからこそ、私たちの救いが成立したのです。

●「なだめ」の範囲
4章に入ってからヨハネは、「神からの霊」(2節)と「反キリストの霊」(3節)の対比、「神から出た者」(4節)と「世の者」(5節)の対比など、もはや民族的な違いを超えた領域、つまり神による予定(エペソ1:4、ローマ8:29)の次元で話を展開しています。それゆえこの章で「私たち」と呼ばれている人々は、もはやユダヤ人クリスチャンだけではなく、信者全般あるいは選ばれた人々全般と言えます。

しかも4:10では、救いが起こる以前の状態に関して述べられていますので、「私たち」という表現の厳密な意味は、救われる以前の信者、つまり選ばれた人々ということになります。神がイエスを遣わしたのは、選ばれた人々の罪に対する神の怒りをなだめるためだったということです。そしてその動機は、選ばれた人々への愛だったということです。

●まとめ
この箇所でも、「なだめの供え物」の対象は、選ばれた人々であると述べられています。

これまでに、新約聖書における、「なだめ」に関するすべての箇所を見てきましたが、贖いのみならず、神の怒りの「なだめ」という点においても、神が元々意図していた対象は、全人類の中の一部の人々だけであったことが結論付けられました。
 
これは、人間の救済という事柄が、神の主導的な恵みによってのみ可能であることを示すためです。神がこの宇宙の支配者であることを、私たち人間ははっきりと認めなければなりません。
 
私たちは、神から受け取ることしかできないのです。自分から生きることも、救いに向かって手を差し伸べることもできません。神に向かってアドバイスをすることなどできないのです。私たちが神に向かって、「あなたは不公平だ」とか「あなたには不正がある」などと言い逆らうことは正しくないのです(ローマ9:11~16、同9:19~24)。神こそが、唯一の絶対者です。アーメン。