ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖霊が集会の導き手

ハウスチャーチ・レポート 第9回目の集会

きょうの集会では、聖霊が集会の導き手であることを強く感じさせられた。

賛美が始まったが、しょっぱなから、きょうの神の中心的な目的は別のところにあることを感じた。なので、賛美はひっぱらずに、早々に分かち合いに進んだ。

●無条件降伏と試練
きょうの分かち合いのテーマは、神への「無条件降伏」と「試練」という感じだった。ひとり一人が、過ぎた一週間に困難を通らされていた。

P兄弟は、特に心の傷もなく安定している兄弟だが、周囲の兄弟姉妹たちがあまりに自分が通らされた困難-死か生かの選択を迫られるほどの困難-について語ったせいか、ついに彼も、最近、自分が体験した試練を語り出した。

内容はここでは言わないが、彼にとって一番痛いところをさらけ出したと言っていいと思う。個人主義的な欧米人が、ああいうプライベートなことを語るというのは、このハウスチャーチの交わりを相当信頼し、心を開いている証拠だと思う。

こういう本音を語れる教会というのは、いいものだと思わされた。

●祈り
きょうの集会を休んだ兄弟が二人いたので、彼らのために祈ったのだが、聖霊は別の祈りの課題を用意しておられた。

そこにはいない、ある姉妹のために祈るよう導かれ、みんなで彼女のために祈った。Tちゃんが、ほんとうは歯医者にかかる備えのために祈りたかったはずなのだが、彼も自分のことはそっちのけで、その姉妹のために祈っていた。明らかに聖霊が、彼女のために祈るよう導いていた。

私たちは、彼女のためにとりなし、彼女を攻撃している悪魔をイエスの名によって叱り、彼女に神のわざが現されることを宣言した。ここでも宣言しておこう。

「R姉は必ずこの集会に参加するようになる!」

イエス・キリストの名によって、これを宣言する。

●まとめ
外部の方には、何がなんだかよくわからないかもしれないが、詳しく言えることと言えないことがあるので、ご勘弁を。

分かち合いにせよ、祈りにせよ、いつもそうではあるが、特にきょうは聖霊の主体性を感じさせられた。

リーダーが神ご自身というのは、こういう統一性があって実にいい。このような教会では、ひとり一人に神による真実な牧会がなされるので、ひとり一人の神体験が深まる、神との関係が強まるという特長がある。

こちらはリラックスしていて、長時間、集会のために祈るとか、集会で語ることを準備するということは一切ないのだが、かってに神が働いてくださるのだから楽でいい。聖徒の建て上げは、この手(ハウスチャーチ)に限る。

●終わりに
「神よ。集会ではTちゃんの歯医者での治療のために祈れませんでした。導き手なるあなたの責任において、兄弟を祝福してください。」

「また、集会を休んだ二人の兄弟のためにも、少ししか祈れませんでした。同様に、あなたの責任において、二人を強めてください。」

エスの名によって、アーメン。



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