ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

災害と人間の罪

「水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々もすべておおわれた。・・・こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。」創世記7:19~21

少し前に、オーストラリア・クイーンズランド州で洪水がありました。私たちの教会は、そこに短期宣教に行っている日本人の兄弟をサポートしています。彼が被災したので心配になり、現地の様子をインターネットの映像で見て、現地の人々は大変だなあと思いました。

2月の中旬には、私たちの教会で賛美を導いていた兄弟が仙台の実家に帰るよう導かれ、みんなで祈りつつ見送ったばかりでした。今回、その兄弟や彼のご家族、家屋も無事だったので、ほっとしています。

その兄弟と入れ替わるようにして、仙台から愛知に導かれた姉妹が、私たちの教会に定着しつつあります。彼女のご家族も無事だったので、胸をなでおろしています。

埼玉には私の母親と妹がおり、懐中電灯と乾電池がなくて困っているというので、今日、買い求めて小包で送りました。

私にとって、自分自身は被災地から遠く離れているものの、身近な人々が軽度ながらも被災しているので、今回の災害は人事ではありません。

東北の津波による被災地の映像を見ると、その荒廃した様子は、同じ日本とは思えない状況です。2万人を超える人々が、一瞬にして亡くなりました。

この小さな国の一部が津波で被災してもこれだけ大変な状況なのに、ノアの洪水の場合はいかばかりであったことでしょう。ノアとその家族を除いて、すべての人間が死に絶えたのです。

●最初の被害者は神
 
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことにだけ傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」創世記6:5~6

私たち人間は、悲惨な出来事が起こると神を呪います。

「この世に神がいるなら、なぜこんな悲惨ことが起こるのだ」「なぜ神はこんなことを起こすのだ」と、あたかも神が悪者であるかのように責めます。

しかし上記の御言葉を見るかぎり、初めの被害者は神です。「主は・・・心を痛められた。」

●すべての人間は罪人

「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深いと思うのですか。・・・あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」ルカ13:2~3

若い頃、福島県にあった開拓教会を何度も応援に行ったことがあります。礼拝のお手伝いをしたり、一緒に祈祷会をしたり、近隣の地域で霊の戦いをしました。

東北地方というのは霊的束縛がとても強い地域です。言い換えると、偶像崇拝が地域の人々の生活の隅々に入り込んでおり、とても盛んで根強い地域です。
 
キリストの教会は、その霊的風習や悪霊の攻撃と激しく戦うことなしに福音を伝えることはできませんし、存続することもできません。

しかし上記の御言葉からわかることは、東北地方の人々が特別に罪深いのではないということです。どこの国の人でも、どの地域の人でも、人間は誰でも罪深いのです。
 
今回は被害がなかった国々や地域の人々も「みな同じように」罪人であり、「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。

被災者の方々に同情するのは決して間違いではありません。しかし私たちクリスチャンは、すべての人間が罪人であり、イエスを信じない人々に対して「神の怒りが天から啓示されている」ことを忘れてはなりません(ローマ1:18)。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも、やみを愛した。その行いが悪かったからである。」ヨハネ3:18~19

私たち人間はみな、「生まれながら御怒り受けるべき子ら」です(エペソ2:3)。すべての人は、悔い改めて御子を信じる必要があるのです。