ドーマギフト
ドーマギフト
「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。
『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』
~この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下さられた方自身が、すべてのものを満たすためにもろもろの天よりも高く上られた方なのです~
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」エペソ4:7~11
11節の5種類の人々に関しては、従来、五役者とか五職という呼ばれ方をしてきました。しかし最近は、8節の「賜物」という言葉がドーマというギリシャ語であることから、英語圏では「ドーマ・ギフト/doma gifts」と呼ばれています。日本では7節の表現を使って、「キリストの賜物」と呼ばれているようです(注)。
またこの賜物は、従来、キングジェームズバージョン(欽定訳)の訳文のゆえに、一部の信者にしか与えられない賜物であると解釈されてきました。しかし近年、11節の翻訳が見直された結果、別の解釈をすべき段階になったと思います。
注:Ⅰコリント12章の聖霊の賜物には、原文ではカリスマという言葉が使われています(12:4)。
●一部の信者か全員か
まず従来の解釈をおさらいしましょう。下記の英文がキングジェームズバージョンです。この訳文によると、使徒、預言者・・・教師の5つの役割は、「some/何人かの人」に与えられたと書かれています。これでは、信者全員に与えれているとは解釈しがたい訳文です。
KJV© 4:11
And he gave some, apostles; and some, prophets; and some, evangelists; and some, pastors and teachers;
しかしニューキングジェームズバージョン、ニューインターナショナルバージョン、新米標準訳は以下のように訳しています。変わった点は、「何人かを使徒として、何人かを預言者として・・・」という具合に、「~として/to be, as」という表現を採用したことです。
NKJV© 4:11
And He Himself gave some to be apostles, some prophets, some evangelists, and some pastors and teachers,
NIV© 4:11
It was he who gave some to be apostles, some to be prophets, some to be evangelists, and some to be pastors and teachers,
NASB© 4:11
And He gave some as apostles, and some as prophets, and some as evangelists, and some as pastors and teachers,
この訳に従うなら、11節の解釈は大きく変わります。5つの賜物の付与を、一部の信者だけに限定する必要がなくなります。信者は全員、5つのうちのどれかに該当することになります。
冒頭に挙げた新改訳聖書の訳もこれと同じ立場です。私はこの訳し方が正しいと考えています。理由は、7節や8節の文脈と一致するからです。
7節でパウロは、信者の「ひとりひとり」に恵みが与えられたと述べています。「ひとりひとり」ということは、全員です。ギリシャ語原文でも、「おのおの、すべて、あらゆる」を意味するヘカストスという言葉が使われています。
8節は詩篇68:18の引用です。詩篇のほうの意味は、神が戦いに勝利して、「高い所」つまりエルサレムにある王座につき、敵から生け捕った多くの「捕虜」を連れて来たという内容です。これを新約に当てはめると、キリストが十字架でサタンに勝利して、選ばれた人々(信者)を「捕虜」として「高い所」つまり天に連れて行ったという意味になります(注)。
注:
エペソ1:4でパウロは、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストにあって選び」と述べています。「あって」という部分のギリシャ語は、エンという前置詞で英語のinに相当します。つまり私たち信者は、「世界の基の置かれる前から」キリストの中に存在していて、キリストの中で選ばれたということです。
コロサイ3:3,4でもパウロは、「あなたがたは・・・キリストとともに、神のうちに隠されてある」「キリストとともに・・・現れる」と言っています。ですから十字架刑と昇天の時点においても、私たちのいのちはキリストのうちに存在していて、キリストともに十字架につけられ、キリストともに昇天したのです。そういうわけでこの「捕虜」とは、私たち信者を意味しています。
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8節の「人々」も信者を意味しています。キリストは天において、私たちに賜物を分け与えてくださったのです。このように、文脈が信者全員に与えたと述べているので、11節だけ一部の信者に与えたと解釈するのは無理があります。
新約では、信者はすべて祭司です(Ⅰペテロ2:9)。この万人祭司という点から考えても、すべての信者にドーマギフトが与えられ、使徒、預言者、伝道者、羊飼い、教師のいずれかの役割を担っていると考えるほうが妥当だと思います。
クリスチャンは元々、キリストに似た者として新しく創造されました(Ⅱコリント5:17、ローマ8:29)。キリストは実に、大使徒であり、大預言者であり、大伝道者、大羊飼い(大牧者)、大教師ですから、キリストの似姿である私たちに、キリストと同じ役割が割り振られることは、理にかなっています。キリストは天に帰り、私たちはキリストの大使だからです(Ⅱコリント5:20)。
注1:「牧師」と訳されていますが、原語の意味は「羊飼い」です。つまり信者を敵から守り、面倒を見る人のことです。必ずしも、現代の教会でいう「牧師」という職業を指しているのではありません。
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「使徒/アポストロス」には、「遣わされた者」という原義があります。このアポストロスは、聖書時代のギリシャ・ローマ社会においては、船が港に近づいてきたことを知らせる伝令係(メッセンジャー)でした。私は、使徒とは長期宣教師のような人々だと考えています。だからと言って必ずしも外国へ遣わされている必要はなく、神(キリスト)によってこの世に遣わされ、伝道だけでなく教会で指導的な役割を果たす人々を指していると思います。
「預言者」は、必ずしもⅠコリント12章の「預言」の賜物が与えられている人のことではなく、神からのメッセージを教会に伝える役割を担っている人が預言者ではないかと考えています。ブログをやっている兄弟姉妹の中にも、預言者がいるかもしれません。
「伝道者」は未信者に伝道するのが得意な人のことで、必ずしも職業として大衆伝道者や巡回伝道者、地域教会の伝道師などをしている必要はないと思います。「教師」は私のように、聖書を教えることに重荷がある人のことだと考えています。
注2:新改訳聖書では「お立てになった」という仰々しい言葉が使われ、あたかも任命された役職を持つ人であるかのような訳にしていますが、原文では英訳のように、「与える」という平易な言葉が使われています。私たち信者は、教会に与えられているのです。
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「キリストの賜物の量り」に従って恵みが与えられているのですから、たくさん任されている人もいれば、少なく任されている人もいるかもしれません。「ひとりひとり」が与えられている役割を果たし、「奉仕の働き」をすることによって、教会はキリストの身丈にまで成長するのだと思います(エペソ4:12,13)。