「勝利を得る者」とは?
「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスあるいのちの木の実を食べさせよう。」黙示録2:7
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」黙示録3:5
上記の御言葉のように、黙示録2~3章に「勝利を得る者」というフレーズが出てくるところが数箇所あります。救いに関して律法的な信仰を持っている人は、救われるための条件をつけたがります。そのような方々にとって黙示録2~3章の「勝利を得る者」の箇所は、条件付の救いを立証するための根拠となっているようです。
その方々は、「勝利を得る者」というフレーズによって、救いに関して次のような定義をつけていると思われます。「勝利を得る者」フレーズが出てくる直前の箇所に書かれている困難な条件を克服した信者は救いに預かることができるが、克服できなかった信者は救いから漏れるというものです。
しかし聖書は、聖書によって解釈するのが原則です。私たちは、「勝利を得る者」というフレーズを、執筆者(使徒ヨハネ)が意図したとおりの意味で理解すべきであって、自分で勝手に創造(?)した思い込みで読むべきではありません。
●「勝利を得る者」=すべての信者
私たちはギリシャ語ではなく翻訳で聖書を読んでいますが、もしギリシャ語で読めたなら、そのような間違いに陥ることはありません。なぜかというと、黙示録に出てくる「勝利を得る者」とまったく同じ表現を、ヨハネは以下の箇所でも使っているからです。
上記の箇所の「打ち勝つ者」は、黙示録の「勝利を得る者」とまったく同じギリシャ語です。翻訳者が違う表現を使って訳しただけです。どちらもニカオーという動詞の現在分詞を名詞的に使い、「勝利する者」あるいは「勝利している者」という意味の表現にしています。当然、Ⅰヨハネ5:4の「世に打ち勝った勝利」という部分にもニカオーが使われています。
Ⅰヨハネ5:4~5を見ていただくとわかりますが、「打ち勝つ者」とは「神の御子を信じる者」ですから、クリスチャンであるなら誰もが「打ち勝つ者」つまり「勝利を得る者」なのです。
そういうわけで、冒頭の御言葉にこれを適用すると次のようになります。(この2箇所だけでなく、すべての箇所に共通です。)
「クリスチャン全員に、わたしは神のパラダイスあるいのちの木の実を食べさせよう。」黙示録2:7
「クリスチャンは全員、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼(ら)の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」黙示録3:5
●どちらもイエスの言葉
「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」ヨハネ6:39
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」ヨハネ10:28
もし黙示録2~3章の「勝利を得る者」の箇所をもって、信仰が弱いクリスチャンは救いを失うかもしれないと解釈するなら、イエスの言葉は福音書と食い違うことになるのです。黙示録におけるイエスの言葉と福音書におけるイエスの言葉が食い違うなら、可能性は次の2つしかありません。
①イエスは嘘つきである
②聖書の記述が間違っている(=聖書は神の言葉ではない)
●まとめ
イエスによる救いは永遠です。もし何らかの理由で途中でなくなってしまう救いであるなら、それは永遠の救いとは言えません。信じる者に与えられるのは、永遠のいのちです。もし途中でなくなるいのちなら、それは永遠のいのちではありません。
イエスによる救いは永遠です。もし何らかの理由で途中でなくなってしまう救いであるなら、それは永遠の救いとは言えません。信じる者に与えられるのは、永遠のいのちです。もし途中でなくなるいのちなら、それは永遠のいのちではありません。
イエスは嘘をつきませんから、永遠と言ったら永遠なのです。救いも永遠であり、信仰によるいのちも永遠です。一度救われた人は、死からいのちに移ったのです(Ⅰヨハネ3:14)。一度移ってしまったら、その継続期間は永遠ですから、二度と死の側に戻ることはありません。
一度救われても、それを失うことがあると、もし誰かが言うなら、その人は、イエスは嘘つきだと言っているのと同じです。しかし聖書は神の言葉ですから、間違いや嘘は一言もありません。