ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「生ける水」とは?

「その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。・・・わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:10、14

当時のギリシャ語では、「生ける水」という表現は、「流水」を意味していました。それゆえ新改訳聖書では、欄外で「湧き出る水」という別訳を掲載しています。
 
サマリヤの女はイエスが流水の話をしたので、どこか流水が汲み取れる場所をイエスが知っているのだろうと考えたのです。

「先生。あなたは汲む物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」4:10

井戸は深いことから、イエスが話している流水は、その井戸からは手に入らないことを女はわかっていました。しかもイエスは水を汲む道具を持っていないのですから、特別な道具なしでも手に汲める流水があるのだろうと女は考えました。
 
ですからサマリヤの女の誤解は、極めて当然の誤解だったのです。ギリシャ語がわからない私たちが考えているような、霊的な水と実際の水という単純な誤解ではありません。

●旧約的な意味
同時に、「湧き出る水」という表現は旧約聖書でも使われています。以下のような聖句を見れば、イエスがそれを意識していたことは明らかです。

「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」エレミヤ2:13

「わたしがから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」エレミヤ17:13

このように「いのちの水」「湧き水」という表現は、いのちの根源である「主」を意味してるのです。旧約時代、ユダヤ人は主を捨てました。そして同じ主であるイエスがやって地上に来たときにもユダヤ人は主を拒みました(ヨハネ1:11「ご自分の民」)。
 
しかし異邦人であるサマリヤ人は、イエスを「世の救い主」(注)と呼び、信じました(ヨハネ4:42)。ヨハネはある意味、イエスを捨てたユダヤ人と、恵みを受けた異邦人を対比させているのです。

注:「世の救い主」=ユダヤ民族+異邦人=諸民族の救い主という意味。全人類やすべての人間の、という意味ではありません。

●永遠のいのちに入る
エスは「永遠のいのちの水」ではなく「永遠のいのちへの水」と述べています。この訳語は、ギリシャ語を直訳的に訳した表現です。この部分を解説すると以下のようになります。

原文: エイス  ゾーエン  アイオニオン
意味:~の中へ /いのち /永遠の

このフレーズで使われているエイスは「~の中へ」という意味の前置詞で、内側に移動する動作を表わす言葉です。「永遠のいのちの中へ」という表現をすることでヨハネは、信者が永遠のいのちの中へ入ることを明確に表現しています。

またイエスは4:14で、永遠のいのちを得る者は「決して渇くことがありません」と言っています。これは、一度救われたら、その救いを失うことはないということです。永遠のいのちの中へ入る泉が信じる人のうちに湧き上がるので、永遠のいのちが尽きることがないのです。その泉とはイエス自身であり、無限の神だからです。

●なぜ疑うのか
ではなぜ多くの信者は、救いを失うと疑うのでしょうか。理由は単一ではないでしょうが、過去の自分の考え方を思い出すと、その理由の一つは、救いには「信じる」という条件が伴うからではないでしょうか。
 
そしてこの条件は、「死ぬまで信じ続ける」「信仰を最後までまっとうしなければならない」という考えにつながります。そして多くの信者は、自分の意志の力で最後まで信じ続けなければならないと考えるので、「救いをまっとうすることは難しい」「途中で救いを失ってしまうかもしれない」ということになるのだと思います。

これの考えは、2つの点で間違っています。

信じることが救いの条件でることは正しいのです。しかし最初の問題として、多くの人は信仰は自分の意志によると思っているので、それを維持することも自分の意志の力によるという論理になってしまいます。
 
①入信は神による
しかしマタイ16:15~17を見てください。ペテロがイエス信じることができたのは、ペテロによるのではなく父なる神によるものだとイエスは言っています。十二使徒のリーダーであるペテロでさえも、自分の力ではイエスを信じることはできませんでした。云わんや私たちをやではありませんか!
 
②信仰の維持も
またペテロはイエスを否み、途中で信仰を失いかけました(ルカ22:54~61)。しかし信仰がなくならなかったのは、イエスがとりなしたからです(ルカ22:31~32)。私たちも人生の途中で、信仰を失いかけるかもしれません。
 
いえ、ルカ22:31には「サタンが、あなたがたを・・・ふるいにかける」と書かれており、すべての弟子がサタンによって振るわれるのです。では私やあなたのために、イエスはとりなしているでしょうか。

ご自分によって神に近づく人々を完全に(永遠に)救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」ヘブル7:25

上記の聖句に、信者が永遠に救われ得る根拠が書かれています。それは大祭司として天でいつもとりなしてくださっているイエスの祈りによるということです。このエスのとりなしのゆえに、私たちの信仰は保たれるのです。
 
もしこれでも自分の信仰が維持されるか心配だという人は、神の言葉に対する不信仰、あるいは神の力に対する不信仰が問題なのであって、教理的な誤解の範疇を超えています。自分の意志力にしか信頼していないので、信仰の保持が心配なのです。

というわけで、大祭司イエスのとりなしがあるのですから、本当にボーンアゲンした信者は全員、永遠に安泰なのです!