ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

律法(モーセ契約)とクリスチャン(修正版)

主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書き記せ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」出エジプト記34:27
 
※最初に掲載したものを一部修正しました。

クリスチャンは旧約聖書の律法を守る必要があるでしょうか。

主イエスはこう言われました。

「わたしが来たのは律法(ギ:ノモス)や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

一方、パウロは次のように述べています。

「(キリストは)ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法(ギ:ノモス)なのです。」(エペソ2:15)

一見すると、イエスの言葉とパウロの言葉は真っ向からぶつかっています。

また主イエスは17節に引き続いて、次のように十戒を引用しています。

「人を殺してはならない」(21節)

「姦淫してはならない」(27節)

「偽りの誓いを立ててはならない」(33節)

つまり、イエス「律法」という表現は十戒も含んでいるのです。イエスは、十戒を含む律法を廃棄するためではなく、成就すあるために来たと述べています。

エス十戒と律法を廃棄しに来たのではないと述べ、パウロは、イエスが律法を廃棄したと述べています。私たちはこの点を正しく解釈しなければ、律法を守らなければならないのか、その必要はないのかがわかりません。

●契約
新約聖書では混乱しているかのように見える問題でも、「契約」の視点から見ると一目瞭然です。

冒頭の箇所(出エジプト記34:27)を見てみましょう。

「これらのことば」とは、直接的には何を意味しているでしょうか。それは、34章1節を見ればわかりますが、十戒です。

そしてこの契約は、神が「あなた」(=モーセ)と「イスラエル」(=ユダヤ)とに結んだものです(34:27)。私たち異邦人は、モーセ契約のパートナーではありません

さて、このモーセ契約は十戒だけではありません。出エジプト記24章を見ると、十戒以外の律法もモーセ契約に含まれていることがわかります。

「そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。『主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。』」(出エジプト記24:7)

この「契約の書」は3節と4節から、すべての律法の規定を書き記した書物であることがわかります。つまりモーセ契約=十戒+律法なのです。

私たち異邦人はモーセ契約のパートナーではありませんから、十戒だけでなく律法とも無関係であることがわかります。私たち異邦人クリスチャンは、元々「律法を持たない」のです(ローマ2:14)。

ですから異邦人クリスチャンである私たちは、十戒も律法も守る必要がありません。神が私たちとは、モーセ契約を結んでいないからです。

それでは、ユダヤ人クリスチャンはどうなのでしょうか。パウロはⅠコリント9:20で次のように述べています(パウロユダヤ人です)。

「私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」

そうです。ローマ7:6に「私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され」とあるとおり、キリストにある者は人種を問わず律法から解放されているのです。
 
●イエスは間違ったのか?
では、マタイ5章の主イエスの言葉はどうなるのでしょうか。イエスは間違ったことを言ったのでしょうか。この答えを知るためのポイントは、マタイ5:20にあります。

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたがの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

マタイ5章の説教で主イエスがテーマにしているのは「義」、つまり神の国の倫理基準であるとともに神のご性質であることがわかります。

エスは、救われるための条件として十戒や律法を守る必要があると述べているのではありません。人が土台としている倫理基準が宗教的な指導者たちの倫理基準に劣るなら、その人は天国に入れないと言っているのです。神は聖いお方なので、神が要求する倫理基準は高いと教えておられるのです。

言い換えると、律法学者やパリサイ人のように熱心に律法や十戒を守っても、その程度の義では救われることはできないということです。律法は神の聖いご性質の現れであり、そのご性質は時代が移行しても変わることはない(=廃棄されない)ということです。

律法を一生涯の間一つの落ち度もなく完璧に守らなければ、神が求めている義に到達できません(ヤコブ2:10)。それゆえ律法を守ることによって神から義と認められる人は、誰一人いません(ローマ3:10)。それゆえイエスは、律法の遵守はご自分が達成する(成就する)と言っているのです。

一方、パウロがエペソ2:15で論じているのは倫理基準や神のご性質についてではありません。旧約時代にユダヤ人と異邦人を隔てていた敵意とは、儀式に関する律法です。いけにえやきよめに関する規定です。それがユダヤ人を特殊な人種として、異邦人と区別していました。

キリストは肉体を持って地上に来てくださり、十字架で神の小羊として一度限りのいけにえとなってくださいました。これによりイエスは、儀式の律法を廃棄した(ギ:無効にした)とパウロは述べているのです。
 
本物のいけにえが捧げられたので、予型のいけにえは廃止されたのです(ヘブル10:1~14)。

マタイ5:17とエペソ2:15は、このようにそれぞれ述べている真意が違いますので、矛盾したことを述べているわけではありません。

●律法の意義
ではクリスチャンにとって、律法にはどのような意味があるのでしょうか。パウロはこう述べています。

「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)

「養育係」とはどういう意味でしょうか。当時のギリシャ・ローマ社会では、様々な種類の奴隷がいました。ここで「養育係」と訳されているパイダゴゴスというギリシャ語は、次のような奴隷のことです。

パイダゴゴスは通常の奴隷とは違います。新改訳聖書では「養育係」、英語の聖書では「家庭教師」などと訳されていますが、どちらもパイダゴゴスの役割を十分に説明していません。
 
パイダゴゴスは一般の学問は教えません。彼らは自分たちのご主人の子どもたちに、倫理を教える役割を果たしていました。ギリシャ・ローマ社会における道徳を教えるのが彼らの役割だったのです。

ですからパウロはこのパイダゴゴスという言葉を使って、律法の霊的役割を実に的確に表しました。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係(=神の国の倫理基準を教えるもの)となりました」と解説しているのです。

律法や十戒には、神の国の倫理基準を具体的に示す役割が、新約時代の今でもあるということです。神が人に要求する倫理基準は高く、多岐に渡っており、人はとてもその基準に到達できないということをわからせるためにあるのです(ローマ3:23)。
 
またⅠテモテ1:8~10を見ても、律法がクリスチャンのためにあるのではないことがわかります。

●結論
クリスチャンは人種にかかわらず、十戒も律法も守る必要はありません。それらからは完全に解放され、自由です。この結論は、以下のような聖句からもわかります。

「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」ローマ7:6

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ10:4)

前の戒めは、弱く無益なために、廃止されました」(ヘブル7:18)

「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。・・・しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3:24~25)

ガラテヤ4章でパウロは、クリスチャンはモーセ契約のパートナーではないと明確に述べています。特に4:31。
 
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」(ガラテヤ5:1)。
 
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。
 
異邦人クリスチャンである私たちは、人種+救いという二重の意味で律法とは無関係です。もしクリスチャンに対して律法や十戒を守れという教えがなされているとするならば、それは間違いです。なぜなら・・・

「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされる」からです(ガラテヤ5:14)。

 
新約聖書は、律法の要求は神を愛し、隣人を愛することで果たされると教えています(マタイ22:37~40、ヤコブ2:8、12)。