律法とクリスチャン その2
「今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊よって仕えているのです。」ローマ7:6
「神は私たちに、新しい契約仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:6
●表面的な矛盾
6月3日の日記で、クリスチャンは律法を守る必要はないという趣旨の記事を書きました。
墓穴を掘るわけではありませんが、その内容は表面的には次のイエスの言葉と真っ向からぶつかります。
「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」マタイ5:19
当然のことですが、私は、十戒や律法を積極的な意味で破るように教えているわけではありません。
しかし例えば、クリスチャンは十分の一を捧げる必要があるかと聞かれたら、答えは「ノー」です。
捧げてはいけないとは言いませんが、捧げる必要は明らかにありません。
十分の一を捧げることは、613ある律法の規定の中の1つであり、旧約時代のユダヤ人に課されていたものだからです。
異邦人には関係ありませんし、クリスチャンにも関係ありません。
だから新約聖書は、十分の一を捧げるように教えていません。
ですから表面的な解釈をするなら、イエスは、律法、すなわち人を霊的に殺すもの、を守る者、また守るように教える者は、天国で偉大な者と呼ばれると言っていることになります。
それは、そのあとの文脈を見ればわかりますが、義を行う者になれと教えているのです(マタイ6:33)。
それこそが、罪から解放された目的です(ローマ6:18)。
律法には義(神の国の倫理基準)が示されているので、律法を守ることは義を行うことになります。
クリスチャンは文字(律法)に縛られる必要はありません。イエスは私たちを自由にするために召してくださったのです(ガラテヤ5:1、13)。
かえって私たちは、御霊に従う必要があります。
御霊は主ご自身ですから、神の国の倫理基準を破るようには導かないのです。
御霊に正しく従うなら、結果的に義を行うことになります(ヨハネ16:8)。
●自由たれ
私は、多くのクリスチャンが霊的に縛られているのを見て残念に思います。
ある人はクリスチャン特有の思い込み(霊的完ぺき主義)に縛られ、
ある人は間違った教えに縛られ、ある人は律法主義に縛られています。
ある人は教会の権威に縛られ、ある人は人間が作った規則に縛られ、ある人は奉仕に縛られています。
ある人は霊的エリート主義に縛られ、ある人は過去の失敗に縛られています。
キリストも、兄弟姉妹たちが自分の意図(霊的自由、解放)と裏腹な状態にあるのを見て、悲しんでいるのではないでしょうか。
兄弟姉妹。私たちは奴隷の女(=モーセの律法)の子どもではなく、自由の女の子どもです(ガラテヤ4:31)。