ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

その1 「使徒」

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」  ローマ1:1
 
いつまで続くかわかりませんが、最近学び始めたローマ人への手紙に関連した重要事項をお分かちしようと思います。
 
使徒預言者は現存するか?
昔から使徒預言者が1世紀限りの存在か、あるいは現存するかの議論が続いています。

この疑問の答えは、単純にイエスかノーで答えられるものではありません。

過去記事「ドーマギフト」(http://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/27464734.html)で書きましたように、エペソ4:11に書かれている5つの賜物は現存するものです。

しかしエペソ2:20に述べられている「使徒預言者」は、ドーマギフトの使徒預言者と分けて考えなければなりません。

「あなたがたは使徒預言者の土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」エペソ2:20

使徒預言者関連の聖句で、上記の聖句ほど誤解されている聖句はありません。

世界中のカリスマ・ペンテコステ系の人々がこの聖句を誤解し、ドーマギフトの使徒預言者が、こんにちも教会の土台であると考えています。

彼らは、使徒預言者は教会形成の土台であるから、クリスチャンは彼らの言うことを聞かなくてはならないと教えています。

この論理を元に、彼らは自分たちをリーダーとした使徒預言者グループを形成して活動しています。

しかし根拠としているエペソ2:20の解釈自体が間違っているのですから、そこから出てくる結論も正しいはずがありません。

●エペソ2:20
この聖句の「建てられており」の訳し方と解釈に問題があります。

この部分は、原典においてはアオリスト過去形が使われています。

つまりその動詞は、過去の特定の時点において、一度だけ起こった歴史的な事実を説明しているということです。

言い換えると、公同の教会が「使徒預言者の土台の上に建てられた」のは過去に一度だけ起きたことであって、二度と起こらないということです。

繰り返しはないのです。

そこでパウロは「使徒預言者」という二つの名詞をひとまとめにして、定冠詞は「使徒」の前に一つしかつけていません。

この聖句の「使徒預言者」は、パウロがエペソ人への手紙を書いた時点(紀元60年代前半)で、すでに教会の土台となっていたということです。

ゆえにその「使徒預言者」は、当時までの数十年間だけに存在した特定の使徒預言者であって、その人々だけが公同の教会の土台を据えるために用いられたということです。

●ユダ17~18
愛する人々よ。私たちの主イエス・キリスト使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。」

上記のユダ手紙の18節の「こう言いました」の部分は、原典では未完了過去形の動詞です。

未完了過去形は、その動作が過去に繰り返されていた場合などに使います。

この聖句でも、ユダが手紙を書いた時点(紀元60年代中頃~後半)から見て、使徒たちの言動が過去のこととして述べられています。

つまりこの聖句も、使徒たちがすでに教会の土台となっており、土台の構築がすでに完了したことをサポートしているということです。

●Ⅰコリント15:7~8
「その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」
 
新改訳聖書では「最後に」と訳されていますが、原典には「すべての最後に」と書かれています。

このパウロの言葉から、パウロは、教会の土台となった使徒として一番最後に召されたと言えます。

言い換えると、パウロ以降に、教会の土台となった使徒は存在しなかったということです。
 
●まとめ
使徒預言者は、①ドーマギフトの使徒預言者と、②教会の土台となった使徒預言者の2つのカテゴリーがあります。前者はこんにちも存在しますが、後者は存在しません。

この点を理解し、両者を区別しないと、あたかも十二使徒パウロのような使徒がこんにちも存在するかのような誤解や混乱に陥ります。

1.こんにち使徒とか預言者と名乗っている方々は、ドーマギフトの使徒預言者ではあるかもしれませんが、ペテロやパウロのような使徒ではありませんし、ユダやシラスのような預言者ではありません(使徒15:32)。

2.こんにち使徒預言者が教会の土台となると主張している方々は、公同の教会と地域教会を混同していると思われます。公同の教会の土台はすでに据え終えられています(エペソ2:20)。