ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新約時代の預言 その1

この日記は、民さんのブログで、私、ダビデのコメントへのご意見・ご質問等に対するお返事を伝えるために書いたものです。

まず預言に関して私が述べたいことを書いたのち、いただいた一つひとつのコメントに対して応答します。
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「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」 Ⅰコリント14:1
 
「それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。」 同14:39
 

まず初めに、上記の御言葉にある「預言」とは、聖霊の働きとしての「預言」のことです。

牧師さんが語る「説教」のことではありません

それは文脈からも言えますし、聖句自体の中に「御霊の賜物」(ギ:霊的な事柄)とありますので、疑う余地がありません。
 
私がお話している「預言」を「説教」と勘違いしている方は、思いを切り替えていただけますようお願いいたします。

●預言は推進すべし

Ⅰコリント14章は、「預言することを熱心に求めなさい」(1節)という勧めで始まり、「預言することを求めなさい」(39節)という勧めの言葉で終わっています。

5節にも、「それ(異言を語ること)よりも、あなたがたが、預言することを望みます
 
預言する者のほうがまさっています」とありますので、

聖書が私たち新約の聖徒に、預言することを推めていることは間違いありません。

ですから私たちはまず、「聖書は預言の推進をはっきりと教えている」という教理的な立場に立つ必要があります。

もし私たちの所属する地域教会で、聖霊の賜物、特に預言が用いられていないのであれば、
 
その点において私たちは、聖書の教えに従えていないのです。

もし従えていないのなら、私たちは悔い改めをしてでも、神からの勧めに従う必要があります。

これは私の意見ではなく、聖書に書いてあることです(ピリピ4:9「私」=上記の言葉を書いたパウロ)。

●誰もが語れる

パウロはⅠコリント14章で、聖霊の賜物を集会の中でどう使うべきかを教えています。

特に預言については、「もしみなが預言をするなら」(24節)、「みながかわるがわる預言できる」(31節)と述べています。

つまり集会に参加している信者全員が預言できる、と聖書は言っているのです。

ということは、預言の賜物を持っている信者も、持っていない信者も、
 
信者であるなら誰でも預言することができるということです。

またパウロのこういった言葉は、新約時代の預言が、
 
旧約時代の預言とは質的に異なっているということを教えるものでもあります。

旧約時代は、預言者は特別に神から預言者としての召しを受けた者だけでした。
 
ですから真の預言者は、間違った預言は語りませんでした。

それゆえ預言者の言葉イコール神の言葉だったのです。

しかし、新約時代の預言/預言者はそうであはありません。
 
多くのクリスチャンが新約時代の預言/預言者と、旧約時代の預言/預言者を混同していますが、
 
パウロはそのようには教えていないのです。

旧約時代の預言の多くは文字として記録され、のちにそれが旧約聖書となりました。

つまり旧約時代の預言は、神からの特別な啓示だったわけです。

しかしパウロがⅠコリント書で教えている預言は、そういう類のものではありません。

まったくかけ離れています。

コリントの教会で語られていた預言の内容の神学的範囲は、

すでに旧約聖書を通して啓示されていた真理と、使徒たちから教えられた真理の範囲内だったはずです。

そういう内容を信者たちが集会で互いに語り合うことによって、

教え合い、励まし合い、戒め合い、啓発し合うのが、コリント書に書かれている預言です。

●預言の実際

新約時代の預言のキャッチの仕方は、人によって多少の違いはあるもしれませんが、おおむね次のように行われます。

集会の中で、聖霊が参加者たちに語りたいと願っている事柄を、
 
預言する者の思いの中に「イメージ/印象」や「(神からの)思い」といった形で示してきます。

「今、神はこう言いたいに違いない」「このことを今、言わなければならない」というような思いが、
 
預言する者の心の中に与えられます。

預言する者は、それを自分なりの言葉で表現します。

それが新約時代の「預言」です。
 
神からかった葉ということです。
 
必ずしも「われること」ではありません。(後述しますが、予告預言はこんにちもあります)

また具体的な言葉が幻のような形で預言する者の思いの中で見えたり、

はっきりとした幻として何らかの光景が見せられ、それに対するメッセージが追随することもあります。

また神の感情(愛や怒り、心痛や喜び)なども、聖霊によって預言する者に伝わってくることがあります。

預言する者は、自身の霊的な感覚でそれらを聖霊からのものと判断し、通常の言語に直して語ります。

それが預言と言われているものです。

ですから預言する者は、いわば聖霊の通訳者のようなものです。

預言の賜物を持っている人と、持っていない人の違いは、
 
預言を受け取る頻度、預言の内容の深さや分量、預言をキャッチするスピードなどに表れます。

しかし預言のキャッチの仕方や語り方は、基本的に両者とも同じです。

ですから預言する者の霊性が高いとか低いということは、預言することの条件として必要ありません。

「みなが預言できる」(31節)のですから、救われたばかりの信者でも預言ができますし、

「(神は信者が)預言することを望む」(5節)のですから、むしろ霊性にかかわりなく、みなが預言すべきなのです。

預言することによって「学ぶことができる」(31節)のですから、一人でも多くの信者が預言し学ぶべきです。

●吟味

吟味についてですが、上記のことをよく考えていただくと吟味の必要性がよくわかっていただけると思います。

パウロは、すべての信者に預言するよう勧めています。

預言のキャッチは、霊的な感覚によります。

聖霊から来ていると思っても自分の思いであったり、
 
逆に、これは自分の思いだろうと思っても、聖霊から来ているものであったりするのです。

つまり間違える可能性は、おおありなのです。

私は預言をしたことも腐るほどありますが、英語と日本語間の通訳をすることも日常的にあります。

通訳は、人間の言葉を聞いてそれを別の言語に直すわけですが、
 
人間の言葉であっても聞き間違えることがあります。

ましてや声なき声で語られる聖霊の語り掛けを、まったく間違えずに通訳(預言)することは不可能です。

どんなにすぐれた預言者が語った預言であっても、新約時代の預言は吟味しなければなりません。

使徒の働き11章で、アガボという人が世界中に大飢饉が起こると予告預言をしました(28節)。
 
しかし初代教会のクリスチャンたちは、その預言を聞いてすぐに行動したわけではありません。
 
その預言が実現したので、事を起こしたのです(29~30節)。
 
新約時代の預言は、吟味をしてから受け取るべきものなのです。

ですからⅠコリント14:29で、預言を聞いている人たちは吟味しなさいというパウロの指導は実に妥当です。
 
そもそも預言というものは、次から次へと語るべき内容が聖霊から示されますから、
 
預言する側がいちいち時間をかけて吟味してから預言していたら、預言などできません。

そういう意味でも、「ほかの者」(周囲で預言を聞いている人たち)が吟味するのは妥当です。

パウロは6節で、自分がコリントの教会に行ったとき「黙示や知識や預言や教えなど」を語らないなら、
 
信者たちに何の益ももたらすことができないと言っています。

つまりパウロは、各教会を訪問した際、自身も集会に参加して預言をしていたということです。
 
パウロは自分でも預言を実践し、どういうものかを知っていました。
 
だからこそ吟味を勧めているのです。

「預言する者も、二人か三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」
 
この言葉は、預言の実際を知っていたパウロによる、理に適った指導なのです。

つづく

次回は、新約時代の預言の役割/機能について書きます。