ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

預言の氾濫の解決方法

この記事は、前回の記事でいただいたご質問に対する応答です。とても貴重なご質問なので、優先的にお答えすることにしました。

「自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。もしそれを認めないなら、その人は認められません。」 Ⅰコリント14:37~38

預言の氾濫というのは、言ってみれば聖霊の賜物の使い方に関する問題です。

賜物の問題は、聖書でどのように対応されているでしょうか。

Ⅰコリント人への手紙の12章以降、特に14章は、まさに聖霊の賜物に関して起こった問題に対する、使徒による対応です。

上記の御言葉は、そのことを証明するものです。

コリントの教会で起きた賜物の問題に対して、使徒であるパウロが対応しました。

パウロは手紙を書き、その中で色々なことを述べていますが、それらは賜物の運用に関する「主の命令」だったのです。

「主の命令」以上にすぐれた対応があるでしょうか。

ですからご質問に対する私の答えとしては、「使徒に対応させることが聖書的な方法」ということになります。

使徒による対応がなされてもなお問題が残る場合、
 
それはその人たちが「主の命令」に従わないということですから、神の御手に委ねるしかないでしょう。

しかし、ここで疑問が提起されるはずです。

「現代にも使徒はいるのか」「いるとしても、自分たちの教会にとっての使徒とは誰なのか」という問題です。

使徒が見つけられない場合、その地域教会との間に信頼関係があり、聖書や神のことも良く知り、
 
聖霊の賜物についても精通しており、しかも教会の指導に関して神から召しを受けている人物に
 
具体的な対処をしてもらってはいかがでしょうか。

とは言うものの、理想だけを言っても仕方がありません。

現実問題として使徒やその代役も見つからない場合、どうすればいいのでしょう。

私が言える範囲で、いくつかの方法を述べたいと思います。

●不要な預言の処理

「預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」 Ⅰテサロニケ5:20~21

月並みの箇所ですが、上記のみことばから少し学びます。

1世紀の諸教会では、定期集会のたびごとに、集会に参加している信者全員が「かわるがわる」預言をしていました(Ⅰコリント14:29)。

ですから各教会の信者の間では預言というものは、ごく当たり前の、ありふれた事柄だったでしょう。

信仰暦の長い信者も短い信者も、お構いなしに預言をしていたはずです。

仮に20人が集う集会であれば、「みながかわるがわる」預言すると、預言の件数は約20件です。

実際は一人で複数の預言を語るでしょうから、数十件の預言になります。

それらの預言は、座って聞いている人たちが吟味してしました。

吟味した後どうしていたかコリント書には書かれていませんが、パウロはⅠテサロニケのほうで次のように述べています。

「ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」

「堅く守る」に当たるギリシャ語カテホーは、例えばⅠコリント15:2「(福音のことばを)しっかりと保つ」や、

ルカ8:15「(良い心でみことばを聞くと、それを)しっかりと守り」で使われています。

ということは、吟味してみて、主からのものではないと判断した(見分けた)預言については、
 
カテホーの逆をすればいいのです。

つまり忘れ去るべきだということです。

●質問しやすい人間関係

「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。・・・あなたがたはみな兄弟だからです。」 マタイ23:8

もう一つの対応として、教会での人間関係のあり方という基本的な点があります。

私が現在属している教会では、集会に集うメンバーの間に上下関係がありません。

リーダーはいますが「牧師」という肩書きは持っていませんし、「~先生」と呼ばれることもありません。

また本人が、牧師のように権威主義的に振舞うこともありません。

なので、メンバーたちは平気でリーダーの言うことに疑問や質問をぶつけてきます。

このような教会環境は、マタイ23:8に基づいています。

「あなたがたはみな兄弟だからです」とは、
 
クリスチャンは全員平等な存在であり、かつ家族的な人間関係にあるべきという意味です。

このような関係にあるので、私たちの教会では、集会で語られた預言に関して質問がある人は、

「今の預言はどういう意味ですか」とか「最後のほうは何と言っていたのですか」などと、
 
私の家内に後から尋ねています。

(家内に尋ねる理由は、集会で主に預言をするのが家内だからです。)

家内は、尋ねてきた人の質問に答え、預言の意味や吟味の仕方に関して、そのつど簡単に説明しています。

いただいたコメントの中に、次のようなお言葉がありました。

>「預言があった!」といえば、個人の意見に神的な権威を帯びるのですから。

確かに一般の教会で預言が語れると、そういうことになると思います。

しかしうちの教会では既述の理由から、「個人の意見に神的な権威を帯びる」という現象自体が起こりません。

預言に限らず、集会で語られるすべての言動に関しても同様です。

ただ集会の中で真に聖霊が語らせた言葉は、

預言であろうとなかろうと、その言葉を必要としていた人の心に残り、
 
その人の成長や信仰の建て上げに用いられています。

●賜物に関する訓練

初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。」 Ⅰコリント14:23

もう一つのポイントは、信者が賜物に関して、どれだけ知識を持っているかにあると思います。

Ⅰコリント14:16の「異言を知らない人々」、同14:23、24の「初心の者」は、どれも同じギリシャ語です。

ヨーグルトなどで味付けのないものに「プレーン」という英語が使われていますが、
 
上記の人々はギリシャ語では「プレーンな人々」と書かれています。

英語の聖書ではこれが、「(賜物に関して)学びのない人」、あるいは「賜物を持たない人」と訳されています。

どちらにも採れると思いますが、要するに聖霊の賜物に関して知識がない人ということです。

これらの人が教会内に存在するため、コリントの教会では賜物に関する問題が起こっていました(同14:23)。

ですから逆に、教会の人々に賜物に関して知識を与えてあげれば、かなり問題が軽減します。

実際、私が過去に属していた教会では、中心的な人たちは日曜午後に行われていた賜物の訓練会に出席して、

聖書から賜物や吟味、見分けなどに関して学び、賜物の実践訓練も受けていました。

そうなると、預言を聞く人自身に預言の知識と経験があるため、預言の氾濫という現象自体が起こりません。

みな自分で吟味しますし、不要と判断した預言はみなすぐに忘れます(あるいは主に委ねます)。

その教会には、預言による問題はありませんでした。

●聖書の知識

「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、
 
教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」 エペソ4:14

また重要なのは、各信者に正しい聖書的知識がどれだけあるかだと思います。

私が以前属していた団体の本部的な教会には、当然、そのグループ全体を取り仕切る牧師がいました。

意図的ではないと思いますが、彼はしばしば同じような内容の預言や指導の言葉を繰り返し語っていました。

そうすると、信者の人たちはある種のマインドコントロールか、それに近いものを受けるようです。

仮にそれが、マインドコントロールだとしましょう。

私は、聖書の中でマインドコントロールに最も近い言葉は、
 
上記の箇所の「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすること」だと思います。

実際、「吹き回される」と訳されているギリシャ語には、「(精神的に)扇動される」という意味があります。

また「もてあそばれる」に当たるギリシャ語には、
 
「ある時にはこの意見に引っ張られ、別の時には別の意見に引っ張られる」という意味があります。

そのようにならないためには、「神の御子に関する知識の一致」に達する必要があると書かれています(エペソ4:13)。

キリストに関する正しい知識を持っていれば間違った預言を切り捨てることができ、
 
預言の氾濫に陥らなくてすむと思います。

実際、私は、英語の信仰書やサイトなどで聖書を正しく知るようになったことにより、
 
そのグループのトップの牧師の預言や教え、判断などに、いくつもの間違いがあることに気づきました。

預言や教えの間違いにひとたび気づいてしまうと、その人はそれらによる束縛から解放されます。

この霊的な自由は、預言や間違った教えの氾濫に対するワクチンのようなものではないかと思います。

●特別な預言と日常的な預言

聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 ヨハネ14:26

>イエスさまが語るのであれば、私の全存在を刺しとおす語りかけをされるでしょう。

最後に上記のご質問に関連した、預言の働きにいて述べます。

「質問しやすい人間関係」の箇所でもチラッと述べましたが、預言の言葉を通して私たちに語るのは聖霊です。

ですから預言を聞いたときに、心に強いインパクトがあるか否かは、聖霊が特別強く、心に働くか否かで決まります。

聖書から見ても、また自分のこれまでの体験から見ても、
 
エスさまが語る言葉がいつも「私の全存在を刺しとおす語りかけ」となるとは限らないと思います。

「私の全存在を刺しとおす語りかけ」という表現は、
 
霊的なインパクトをもって心に強く深く響く主の語り掛けという感じのものをおっしゃっていると思いますが、

そのような語り掛けは、例えば、人生の導きの重要な部分に言及する場合など、
 
特別な場合にしか起こらないと思います。

十二弟子たちのことを考えてみましょう。

彼らは3年半に渡ってイエスご本人と共に過ごし、多くの語り掛けを聞きました。

しかし福音書を見る限り、彼らがイエスの言葉を聞くたびに
 
「全存在を刺しとおす語りかけ」を受けていたように見えるでしょうか。

到底、そうは思えません。

それはこんにち、私たちが聖書を読むときと同じだと思います。

聖書を読んだからといって、みなさんは毎回、「全存在を刺しとおす語りかけ」を受けますか。

答えは「いいえ」のはずです。

聖書を読んで「全存在を刺しとおす語りかけ」を受けるときは、いわゆるレーマという形で語られたときに起こります。

レーマとは、特定の個人の、特定の状況に関して、特定の時に、
 
神が聖書の言葉を通して直接的に語った場合のことを言います。

聖書のすべての言葉はロゴスであり、ゆえにイエスさまの言葉ですが(ヨハネ1:1)、
 
ロゴスは「全存在を刺しとおす語りかけ」にはなりません。

預言の場合も同じです。

ある預言を本当に聖霊が語っていても、それは私たちにとって、必ずしも「全存在を刺しとおす語りかけ」にはなりません。

「全存在を刺しとおす語りかけ」ではないからその預言は神から来ていないのかというと、そうではないのです。

預言が「全存在を刺しとおす語りかけ」となるのは、神が特別重要な場合に、強い力をもって語る場合のみです。

ですからそういう特別な感覚を吟味の基準にしたり、特別な感覚を期待して預言を聞くなら、

ほとんどの預言は神からのものではないという判断になってしまいます。

このことは、長年にわたって預言を日常的に聞ける環境の中で歩んでみるとよくわかります。

そういう環境の中にいると、自分だけでなく他の兄弟姉妹も同じであることに気づきます。

そうすると私たちは、日常的な預言を通しても聖霊が語っておられることに気づき、
 
そういう預言からも主の語り掛けを聞き取ろうと心を砕くようになります。