ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新約時代の預言 その2

「私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。
エスのあかしは、預言の霊です。」 黙示録19:10

使徒ヨハネは黙示録の中で、彼に語った天使を礼拝しようとしました。

そのとき天使が言った言葉が、冒頭の聖句です。

念のために説明しておきますが、「イエスのあかし」とは、「イエスに関する証言」あるいは「イエスを証明するもの」という意味です。

「イエスが語るあかし」という意味ではありません。

それはギリシャ語の文法からわかります。

「イエス」の部分が主格所有格ではなく目的格所有格ですので、「イエス」が「あかし」の目的になります。

また「あかし」という言葉は、裁判官の前で語る「証言」を意味する言葉です。

つまり「イエスのあかし」とは、「イエスに関する証言」「イエスを証明するもの」ということです。

ですから天使は、イエスを証明するものは「預言の霊」だと言っているのです。

天使は「預言の霊」を持っていないけれども、イエスには預言の霊があり、預言をすると。

注:天使は神(キリスト)からの預言を伝えるメッセンジャー(使い)であって、自分自身では預言をしません(ルカ1:19、黙2:1,8、他)。

●教会と預言

この意味でも、私たち教会は預言を重視しなければなりません。

なぜなら、預言とはイエスを特徴付けるものだからです。

エスの体である私たちクリスチャンがイエスを証明せずに、一体、誰がイエスを証明するのでしょうか。

私たちが預言を語るなら、イエスを証しすることになるのです。

●信者を建て上げる

さてパウロはⅠコリント14章において、預言は信者の徳を高めると述べています(4節)。

新改訳聖書では「徳を高める」と訳されていますが、
 
オイコドメオーというギリシャ語の原義は「家を建てる」「建造物を建築する」です。

これは教会が神の「神殿」であり(Ⅰコリント3:16)、「神の家」だからだと思います(Ⅰテモテ3:15)。

預言とは、教会(信者)を建て上げるものなのです。

ちなみに、「家」はオイコスです。

オイコドメオーが比ゆ的に使われると「クリスチャンの霊的成長を促進させる」という意味になります。

よって、英語の聖書では「啓発する」と訳されています。

私としては、「徳を高める」よりも「クリスチャンの霊的成長を促進させる」や
 
「啓発する」という訳のほうが適切だと思います。

とにかく、聖書が預言は「クリスチャンの霊的成長を促進させる」と言っているのですから、
 
私たちは預言を用いるべきなのです。

●教え・励まし・慰め・勧め

「すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」Ⅰコリント14:31

上記の聖句から、預言の具体的な機能を知ることができます。

「学ぶ」ことができるとありますので、預言には「教え」の機能があります。

また「勧めを受ける」とあります。

こう訳されているパラカレオーという言葉には、実際のところ「勧め」だけではなく、「慰め」「励まし」「指導」も含まれます。

それゆえ英語の欽定訳では「慰めを受けることができます」と訳してありますし、
 
NIV、ニュー・キング・ジェームズ、ニュー・イングリッシュ・トランスレーション・バイブルなどは「励ましを受けることができます」
 
米標準訳は新改訳同様、「勧めを受けることができます」と訳しています。

同じような機能について、ルカは以下のように記録しています。

「ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、力づけた。」 使徒15:32

●予告

新約時代の預言には、予告の機能もあります。

「その中の一人でアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、果たしてそれがクラウディオの治世に起こった。」使徒11:28

●指示(命令)

神は預言を通して、具体的な指示を出す場合もあります。

「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。」 使徒13:2

13:1に、アンテオケ教会には「預言者・・・・がいた」書かれており、
 
1節に書かれている人たちが2節で礼拝していたことから、

上記の指示は、預言者を通して語られたものであることがわかります。

●警告

ヨハネの黙示録は、同1:3に「預言のことば」とあるとおり、預言の書です。

2章と3章には、7つの教会に対するイエス・キリストからの警告が書かれています。

警告とは、「~しなければ、~こうなります」という類のものです。

例えば、「悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう」とあります(同2:5)。

この場合、エペソの教会が悔い改めるならいいものの、悔い改めないならエペソの教会は存続しなくなるという警告が預言されています。

●個人預言

また特定の個人に関して預言が語られ、神からのメッセージが述べられることもあります。

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」 Ⅰテモテ1:18
 
●雑感
 
預言はイエスを証しするものなので、基本的にイエス預言者として働く際のすべてのカテゴリーをその機能/役割としています。
 
ただし、Ⅰコリント13:9に「預言することも一部分だからです」とあるとおり、
 
預言が完全なものだと思い込んでしまうと、場合によっては躓きを覚えることもあるかもしれませんので注意してください。
 
多くのクリスチャンは、新約時代の預言を旧約時代の預言のようなイメージで捉えるため、
 
「預言はおかしい」とか「当たらない」という印象を持ちやすいのではないかと思います。
 
しかし聖書は最初から、預言は「一部分」しか神のメッセージを伝えないと教えています。
 
また私の経験では、預言の比率としては、「教え・励まし・慰め・勧め」のカテゴリーの預言が最も一般的で、
 
予告や指示預言は、比率としては少ないと思います。
 
ただ、いわゆる預言の聖会などにおいて、個人の求めに応じて受ける預言の場合は、予告預言も珍しくないと思います。
 
予告預言や指示預言を語れる人は、多くの場合、聖霊によって預言の賜物(Ⅰコリント12:10)が与えられている人です。
 
なお、預言と似た聖霊の働きとして、「知恵・知識のことば」の賜物があります(Ⅰコリント12:8)。
 
これは預言とミックスで働く場合もありますが、基本的に別の賜物です。

次回は、吟味の実際について書こうと思います。