吟味の実際 その1
「預言をする者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」 Ⅰコリント14:29
「預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」 Ⅰテサロニケ5:20~21
最後に預言の吟味について、書きたいと思います。
預言の重要さがわかっても、預言の吟味ができなければ、預言を正しく用いることはできません。
預言を聞く目的は神のメッセージを受け取るためですが、
吟味ができなければ、どの預言が真に神からのメッセージなのか判断できないからです。
吟味ができないなら、預言が語られる意味が大きく損なわれるばかりか、混乱をきたしてしまいます。
●「預言の霊」の臨在
前回の記事で「預言の霊」について述べました。
「預言の霊」は、イエスを証しするものです。
集会で預言が語られ始めるとき、この「預言の霊」の存在(臨在)が感じられるか否かは重要です。
「預言の霊」といっても、それは神以外の霊でありません。
イエス・キリストに神以外の霊は付随しません。
ですから「預言の霊」とは当然、聖霊です。
わかり易く言いますと、集会で祈りが深まってきたときや、賛美のあとで主を礼拝しているときに、
聖霊が会衆に対して何かを語りたがっている、何かを語ろうとしていると感じることがあります。
これが「預言の霊」の臨在(のしるし)です。
この「預言の霊」の臨在は、預言の賜物や霊の見分けの賜物(Ⅰコリント12:10)を持っている人、
また霊的に敏感なタイプの人なら感じられるはずです。
そういう人は、聖霊が会衆の中の誰に預言を語らせようとしているか、
言い方を替えると、「預言の霊」が誰のところに来ているかもわかります。
この「預言の霊」が集会の場に臨んでいるか否かを見ておくことは、吟味において重要です。
特に、「預言の霊」が来ていないのに誰かが預言をした場合、それは真に神から来た預言ではなく、
語った人が自分の思いを預言と間違えて語ってしまった可能性が高まります。
ですから「預言の霊」が感じられないときに語られた預言は、通常よりも注意深く吟味する必要があります。
ただ、集会の只中でではなく、聖会などでいわゆる「預言者」と1対1の状態で個人預言をしてもらう場合は、
この「預言の霊」の臨在が捉えにくいことがあります。
その場合は、この方法は適用できません。
●備考
聖霊の臨在を感じ取ることができる方は、比較的、霊的に敏感な方です。
霊的に鈍感な方は、祈りの量を増やすと霊の動きがわかるようになります。
異言で祈れるようになりましょう。
それが霊的に敏感になるための入り口になります。