ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

人間の意志と救い

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」 ローマ3:9

通常、福音派のクリスチャンは、すべての人間が罪人であることを認めています。

しかし罪がどの程度まで人の救いに影響を及ぼしているかに関しては、見解に差異があります。

一つ目は、福音を聞いたことがない人をも神が断罪し地獄に送るかどうかで意見が分かれていること。

これについては、以下の過去記事で取り扱いました。

「胎児や赤ん坊が死んだら、どこに行くのか?」→http://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/28379749.html

二つ目は、罪が未信者の意志を支配しているか否かという点です。

言い換えると、未信者が自分の意志によってキリストを信じることが可能かということです。

この記事では、この二つ目について述べたいと思います。

●悟り

「悟りのある人はいない。」 ローマ3:11前半

原典では「悟り」と訳されている部分には「理解する」という意味の動詞が使われています。
 
ですから直訳すると、11節には「理解する者はいない」と書かれていることになります。

文脈上、この「理解」は知的な理解ではなく、霊的な理解です。
 
言うまでもありませんが、未信者でもこの世の知的な事柄は理解できます。
 
しかし神に関する事柄は、受け入れいることができません。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。」 Ⅰコリント2:14

パウロがⅠコリント2章で語っている奥義とは、「世界の始まる前からあらかじめ定められたもの」と7節にありますから、救いに関する真理のことです(エペソ1:4)。

生まれながらの人間は、救いに関する真理を悟ることができないとパウロは言っているのです。

ですからもし誰かが福音を信じて救われたとするなら、それはその人の肉の知性による産物ではありません。

御霊の働きによって起こったことです。

●神を求める

「神を求める人はいない。」 3:11後半

未信者は神を求めることができません。

わたしは、わたしを求めない者に見出され、わたしをたずねない者に自分を現した。」 ローマ10:20

とあるように、もし誰かが神を求めて神を信じるなら、それはその人が求めたのではなく、神がご自身をその人に現したのです。

救いの主体は神であって、人ではありません。

●無益

「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」 3:12

「迷い出る」とは、本来の道から逸れてしまうことを言います。

また、「ともに」と訳されている言葉は、「同時に」という意味の副詞です。

12節の原文を直訳すると次のようになります。

「すべての人が迷い出て、同時に無益になった。」

これはアダムの罪によって、全人類と神との関係が崩れたことを言っているのではないかと思います。

引用箇所は詩篇14:1~3で、詩篇のほうには「同時に」を表す言葉は使われていません。

パウロが原罪による全人類の堕落を言いたいがために、多少変更したのではないでしょうか。

人類はこぞって神との関係が狂ったため、神のために役に立たない存在になったのです。

その結果、未信者は言葉において罪を犯しており(13,14節)、
 
行動においても互いに傷つけあい、罪を犯しています(15~17節)。

未信者には、「神に対する恐れがありません。」 同3:18

●義人はいない

「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。」 3:19前半

「律法の言うこと」とは、律法の内容です。

「律法の下にある人々」とは、ユダヤ人です。

ですから19節前半は、「私たちは、律法がユダヤ人に与えられていることを知っています」という意味です。

これは出エジプト記24:7~8、出エジプト記34:27などからもわかります。

「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」 3:19後半

ここでパウロは、神がユダヤ人に律法を与えた目的を説明しています。

それは、全世界が神の裁きに服従するためだと。

どうしてユダヤ人に律法が与えられると、すべての人間が神の裁きに従うことになるのでしょうか。

パウロが考えていることは、どうも次のようなことのようです。

これまでパウロは、ユダヤ人でさえ律法を守ることができず、神の前に有罪だと論じてきました。

神が選んだ民族でさえ有罪であるなら、ましてやその他の民族が律法を守れるはずはない。

だからすべての人間は神に申し開きはできず、全世界は神による有罪判決に服するしかない。

こう解釈すると、続く20節と論理の流れが一致します。
 
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」 同3:20

「だれひとり神の前に義と認められないからです」の部分は、詩篇143:2からの隠喩です。

ダビデがこう言っています。

「生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」

結局、10節後半の「義人はいない。ひとりもいない」という御言葉に戻るわけです。

ローマ1:2に「この福音は、神が・・・聖書において前から約束されたもの」だと述べられているとおり、

パウロがこの手紙で展開している神学は、すべて旧約聖書に書かれていることの要約なのです。
 
聖書は昔から、パウロが述べているのと同じことを語っていたのです。

●結論
 
人は、救いに関する真理を理解できません。
 
また、人は神を求めません。
 
誰かが神を見出すとすれば、それはその人が見出したのではなく、神がご自身を現したのです。
 
人は罪のゆえに、全員、神に対して役に立たない存在になっています。
 
人間は神の律法に従うことができないため、誰一人、義と認められません。

この記事のはじめのところで掲げた疑問点は、罪が未信者の意志を支配しているか否かでした。

言い換えると、未信者が自分の意志によってキリストを信じることが可能かということでした。

答えは言うまでもありません。

罪は未信者の意志を支配しています。

「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と、主イエスが言っているとおりです(ヨハネ8:34)。

ゆえに、神の恵みなしにキリストを信じることができる人間は皆無です。

私たちがキリストを信じたから救われたのではありません。
 
神が信じさせてくださったから、信じることができたのです。
救いの主体者は神であって、私たちではないのです。
 
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより
 
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認めらるのです。」 ローマ3:23~24
 
アーメン