ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

堕落

「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」 ローマ3:4後半

これは詩篇51篇4節からの引用です。

4節後半がポイントの部分なのでパウロはそこだけを引用していますが、私たちはそこだけ見てもパウロの意図が理解できません。

ですから51篇の他の箇所も見て、引用に込められている含蓄を捉える必要があります。

詩篇51篇5節にこうあります。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」

端的に言えば、聖書は性悪説です。

人はもともと、罪人として罪(罪の性質)を持って生まれて来ます。

ゆえに神に従おうとしても、イスラエルの王の中で最も忠実なダビデでさえ、罪を犯してしまいます(3~4節)。

人は、ある程度なら神の律法に従えるかもしれませんが、完全に従うことは絶対にできません。

ですから神から義と認められることは100%あり得ません。

律法は、完全に守らないのであれば全部を破ったのと同じと見なされるからです(ヤコブ2:10)。

ですから神が「宣告」するとき(=人に有罪判決を言い渡すとき)それは正しく、

「さばくとき」(=人をその罪のゆえに断罪するとき)、それは「きよい」(=神に罪はない)のです(4節後半)。

つまり、人は有罪にされてしかるべきだとダビデパウロは言っているのです。

ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、神が人を断罪することは正しいのです。

●堕落
このように、罪のゆえに神に従えない人間の状態を、学者たちは「堕落」と呼んでいます。

聖書は人間の堕落を明確に主張していますから、私たちクリスチャンがそれを土台に聖書を理解することは必然です。

この堕落を認めるか否かで、救いの主役が神か人かを分けますし、神の恵みが全的か部分的かを分けるからです。

特に今私たちが学んでいるローマ3章は、聖書の中でも最も明確に人の堕落が述べられている箇所なので、しっかりと押さえておきたいところです。