神の真実
「彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるのでしょうか。絶対にそんなことことはありません。」 ローマ3:3~4
2章の終わりでパウロは、神の民に救いをもたらすのは外面的なしるしではなく、御霊による内面的な働きであると述べました。
3章に入ると、では神がイスラエルに与えた恩恵は無意味なのかという議論を展開します。
3:2でパウロは、その恩恵の代表は「おことば」であると述べます。
●「おことば」とは?
では「おことば」とは何を指すのでしょうか。
パウロは、「いろいろなおことば」と述べています。
「おことば」と、3節の「不真実」や「神の真実」とが具体的にどう結びつくのかがわかりません。
それらの「心の割礼」の箇所はどれも、御霊による新生のことを述べている箇所なので、パウロが救いに主眼を置いていることを思い出してこの3章を読むなら、3章に入ってからもパウロがユダヤ人の救いに主眼を置いているのではないかと推察することができます。
ユダヤ人の救いについて語っていることがわかるなら、この曖昧な箇所を理解するヒントが得られます。
例えば、2節の「おことば」の中には、イスラエルの救いの約束も含まれています。
ローマ11:26~27でパウロは、イザヤ59:20~21を引用しています。
「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えられたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
そういう救いがなされる「時」が来ます。
イスラエルの救いという観点で3~4節を見ると、言わんとしていることが多少わかりやすくなります。
●不信仰
「彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるのでしょうか。絶対にそんなことことはありません。」
新改訳聖書が本文で「不真実」と訳している言葉は、欄外の別訳にあるとおり「不信仰」という意味です。
マタイ13:58の「不信仰」が、まったく同じアピスティーアという単語です。
その不信仰のゆえに、彼らは救いに預かれませんでした。
救いは行いではなく信仰によりますが、イスラエル人たちの多くは、救いのための信仰を持っていなかったのです。
つまり、ユダヤ人たちは不信仰だけれども、だからといって彼らに対する救いの約束が反故にされることはないのです。
神はそのような忠実さをもって、将来、イスラエルをみな救うと約束しているということです。
私たちクリスチャンも、この神の忠実さに恵みを見出すことができます。
ユダヤ人同様、私たちも、救われたあとであっても罪を犯し不忠実です。
また不信仰にも陥ります。
私たちは心の中で、「自分は不信仰だから、不忠実だから、天国に行けるかどうかわからない」と疑うかもしれません。
実際いろいろなクリスチャンと話をすると、そう思っている人が結構いるのです。
このような思いは、私たちの肉から来る偽りです。
嘘です。
しかしそれにもかかわらず、私たちに与えられている救いの約束は変わることはありません。
それは、神の真実さ(ギ:忠実さ)のゆえです。
約束に忠実な神が不信仰なユダヤ人を救ってくださるよに、私たちが不信仰であっても、神は自身の忠実さのゆえに、私たちの救いをまっとうしてくださるのです。
私たちは「偽り者」(嘘つき)でも、神は、「真実な方」です(4節)。
ですから神が聖書を通して私たちの救いを約束するとき、それは「真実」なのです。
私たちの何かによってではなく、神の真実さによって私たちは救われるのです。
神が真実である限り、私たちの救いは決して揺らぎません。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」ヨハネ10:28