ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

割礼と新生

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」 ローマ2:28~29

割礼とは、男子の性器の包皮を切り取ることを言います。

割礼は、主の命令によってイスラエル人が神との契約のしるしとするようになる以前から、この世において行われていました。

しかし神がそれを契約のしるしとしたことにより、霊的な意味を帯びることになりました。

●堕落と割礼
アダムの罪による人類の堕落は、男性の精子によって子孫に継承されると考えられています。

イエス・キリストは、系図上はダビデの子孫であるヨセフの息子ですが、ご存知のとおりヨセフとは生物学的には無関係です。

ヨセフの精子によって身籠ったわけではなく、マリヤの卵子聖霊によって懐胎したからです(マタイ1:18)。

男性による生殖によらなかったため、キリストには罪の性質(堕落)がないのです。

その意味で男性器は、人間の堕落を象徴する臓器です。

ですから男性器の包皮を切り取る割礼は、人間には堕落の切り取りが必要だというメッセージを物語っているのです。

●心の割礼
割礼には、そのような重大な意味があることは確かです。

しかしパウロは、外面的な割礼をしても人は堕落から解放されないと主張しています。

当時のユダヤ人は外面的な割礼に安んじ、それを誇っていました。

こんにちも同じだと思います。

しかし神は、次のように述べています。

「あなたがたは心の包皮を切り捨てなさい。」 申命記10:16

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」 申命記30:6

「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」 エレミヤ4:4

神が求めているのは外面的な割礼ではなく、内面的な割礼です。

外面的なユダヤ人ではなく、「人目に隠れたユダヤ人」こそ真の契約の民であり、「御霊による心の割礼」こそ神が望む割礼なのです。

●新生=心の割礼
上記のように、旧約聖書は、人が心の割礼を受けるとき、神に従えるようになると述べています。

では「心の割礼」は、どのようにしたら受けられるのでしょうか。

それは、人にはできません。

御霊がすることだからです。

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けわたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」 エゼキエル36:26~27

鍵は聖霊の授与、つまり新生です。

パウロは、御霊が与えられることによって人は堕落から解放され、神に従えるようになると述べているのです。
 
●契約のしるし
聖霊の授与(新生)は、新しいの契約のしるしでもあります。
 
一部の方々は、新しい契約のしるしは洗礼だと考え、幼児洗礼を授けます。
 
しかし聖霊の授与(新生)こそ、新しい契約のしるしです(エペソ1:13,14、同4:30)。

●恵み
私たちは異邦人ですが、神は恵みによって私たちに御霊を与え、心の割礼を施してくださいました。

私たちはユダヤ人ではありませんが、彼らよりも聖書の中心的なメッセージを理解しています。

これは御霊の働きによります。

神の言葉を理解することなしに、神に従うことはできません。

ユダヤ人は外面的な割礼に安んじ、キリストを拒みました。

私たちは律法も契約も預言も知らず無知でしたが、恵みによって福音を信じることができました。

ただ、ありがたいとしか表現のしようがありません。

神に感謝します。