ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

民さんへのレス その2

>19節の御霊を消してはなりません。
の御霊は23節の来臨のとき、責められるところがないように、あなながたの霊、……の御霊と考えられるとも思いますので
 
ダビデからのレス
 
23節は、パウロがテサロニケのクリスチャンたちのために祈っている箇所です。

原典のこの箇所を見てみましょう。

「ホロクレロス/ヒューモン/トウ/プニューマ/カイ/ヘ/プシュケー/カイ/トウ/ソーマ/アメンプトス」

「すべての部分において完全な/あなたがたの/定冠詞/霊/そして/定冠詞/魂/そして/定冠詞/体/責められるところがなく」(順に各単語の意味)

このあとに「イエス・キリストの前で」を意味するフレーズが続き、一番最後に「保つ」という意味の動詞が来ています。

「霊」「魂」「体」の前に、「あなたがたの」が来ていて、「あなたがたの」が「霊」「魂」「体」それぞれに掛かっています。

「霊」「魂」「体」は、英語のandに相当する「カイ」という接続語でつながれています(=並列になっています)。

これを訳の上でわかりやすくしますと、「あなたがたの霊、そして、あなたがたの魂、そして、あなたがたの体が・・・」となります。

また、「あなたがたの」から「体」までがホロクレロスという形容詞と、アメンプトスという副詞で挟まれていて、「霊」「魂」「体」それぞれを修飾しています。

つまりパウロは、「霊」「魂」「体」のそれぞれが責められるところのない状態に保たれますようにと祈っているわけです。

民さんの解釈に行き着くためには、3つの名詞のうちの最初の「プニューマ/霊」だけを御霊とし、あとの「魂」と「体」を人のものとすることになります。

私はこれだけも無理を感じてしまいますが、以下の疑問点に至るとさらに無理を感じます。

どうしてパウロは、「(御霊が)責められるところがなく保たれますように」と御霊のために祈る必要があるのでしょうか。

御霊はもともと聖いから、聖霊と呼ばれているはずです。

つまり御霊は神であって、もともと無限に聖いく、責められるところのないお方で、過去から未来永劫までもそのご性質は変わりません。

神の性質は永遠なのです(例:ヘブル13:8)。

つまり人の祈りによって神の(御霊の)性質を維持する必要はありませんし、できないのです。

責められることのない状態に維持する必要性があるのは、人間の「霊」「魂」「体」だけです。

よって、23節の「あなたがたの霊」と19節の「御霊」を結び付けようとする民さんの解釈には無理があると思います。