吟味の実際 その3
「主は私たちに、こう命じられているからです。
『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」 使徒13:47
●指示預言とは何か
まず、指示預言の定義をはっきりさせておきます。
指示預言とは、具体的な人物に対して、具体的な内容の行動(言動)を命じる預言のことです。
「~しなさい」というフレーズがついているからといって、何でも命令(指示)なわけではありません。
ほとんどの場合、その「~しなさい」というのは「勧め」です。
●指示預言の吟味
指示預言の具体例は、先日の記事で取り上げた使徒13:2にあるような預言です。
聖霊は、バルバナとサウロという具体的な人物に対して、特定の任務につかせなさいとの命令を下しています。
こういった指示預言の吟味は、どうしたらよいのでしょうか。
それは預言以外の示しによってです。
二人の「任務」は、ご存知のように異邦人伝道です。
しかし2節の預言には「異邦人」という言葉は語られていませんし、「伝道」という言葉も述べられていません。
「わたしが召した任務」だけです。
では彼らは、どのようにして任務の内容を知ったのでしょうか。
私が思うに、預言が出る前から二人には別の方法で、異邦人伝道の召しが示されていたのだと思います。
使徒13:47を見るとイザヤ49:6を引用して、二人は自分たちが神によって異邦人伝道に召されていることを証ししています。
二人は、「主は私たちに、こう命じられているからです」と堂々と述べています。
二人はイザヤ49:6を通して、自分たちの任務に関するレーマを前もって受けていたのです。
この証拠として、派遣された二人はすぐさま異邦人の国々に向かい、
イスラエルに向かうそぶりはまったくありませんでした。
もし前もって異邦人への伝道が示されていなかったなら、
「わたしが召した任務」の詳細がわかるまで、暗中模索したはずです。
しかし二人は自分たちが異邦人伝道に召されていることを預言が語られる前から知っていたので、
迷うことなく異邦人の国々に向かうことができました。
彼らは預言以外の方法で示しを受け、祈りつつ神のゴーサインを待っていたのだと思います。
指示預言が語られてから二人の派遣までの時間がとても短いのは、指示預言が単なる確認の役割であって、
中心的な示しはそれ以前にすでに語られていたからだと思います。
新改訳聖書では3節の最初の言葉を「そこで」と訳していますが、原語は「その時」という意味です。
指示預言が語られた「その時」、1節に書かれている人々は断食と祈りと按手をして、二人を送り出したことになります(3節)。
重要な任務に関するこの超短時間の処理の理由は、
預言が、前もって語られていたことの最終確認に過ぎなかったからだと思います。
このことから、指示預言だけで御心を判断してはいけないということがわかります。
必ず聖書からの語り掛け(レーマ)、摂理、環境や状況に現される神からのしるし、
祈りの中での確信や平安などと合わせて、本当に神からの預言かどうかの判断をしましょう。
●テモテのケース
預言だけで動いてはいけないことは、テモテの任務からもわかります。
テモテも、あるとき個人預言を受けました。
その預言の具体的な内容は聖書に書かれていませんが、
Ⅰテモテの記事によって、それがテモテの任務に関する預言であったことがわかります。
テモテが預言を受けていたことはⅠテモテ1:18に書かれていますが、
18節の「この命令」とは、同1:5の「この命令」のことです。
1:5の「この命令」とは、3~4節に書かれている、「エペソにずっととどまっていて、
ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください」
という命令です。
パウロは「この命令」を、以前テモテについて語られた「預言に従って」彼にゆだねました(1:18)。
テモテにとっては、預言とパウロによる命令のダブルで、エペソでの任務が語られたことになります。
テモテはそれまで早まった行動はせず、
パウロを通して、神の時と具体的な導きが来るのを待ち望んでいたのです。
預言で何らかの指示を受けたときには、その預言だけで判断せず、
預言以外の方法で与えられる神からの確認を取りましょう。
そうすることではじめて、指示預言が本当に神から来たかどうかを吟味することができるのです。
他の方法で確認が取れないなら、その指示預言は間違っていたか、
神の時がまだ先かのどちらかということになります。
新約時代の預言は旧約時代の預言とは違うのですから、あわてたり、動揺する必要はまったくありません。
通常の歩みを続けましょう。