ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

イエスが奇蹟を行ったのは、人としてか? その4


●まとめと弊害

 そういうわけで、「イエスが奇蹟を行ったのは単に人としてであり、聖霊の力によってのみそうした。だから私たちクリスチャンは、イエスを模範として奇蹟を行うべきなのだ」という教えに惑わされないようにしていただきたい。
 
 この教えを信奉することの何がそんなに問題かというと、この教えを突き詰めていくと、「だからクリスチャンは奇蹟を行うべく、油注ぎを受けて、天を地に侵入させる存在にならねばならない」という方向に進んでいくからだ。
 
 それの何が問題かというと、リバイバルをあたかも人が主導するものであるかのように考えるようになるからである。ここに惑わしがある。なぜそんなことが言えるのか。その答えはこうである。
 
ローマ11:34~36
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからですどうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
 
 つまり聖書が教える神の国の原則は、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」ことなのである。しかしクリスチャンという人間が油注ぎを受けて、リバイバルが起きると、この原則が次ぎようにずれる。「すべてのことが、神から発し、によって成り、神に至るからです」。これでは、アーメンと言えないのだ。
 
 私は某キリスト教出版社の翻訳者をしているので断言できる。リバイバル関連の書籍に共通している内容は、読者がスーパークリスチャンに成るための方法論の伝授である。しかし神は、スーパークリスチャンにリバイバルを起こしてもらいたい、などとはこれっぽっちも願っていない。起こしたければ、いつでも自分ひとりで簡単に起こせるからだ。
 
 では神は、何ゆえにクリスチャンたちに霊の賜物(油注ぎ)を与えるのだろうか。それはリバイバルを起こすためではなく、キリストの花嫁を成熟させるためである(エペソ41113参照)。このことは以下のみことばからもわかる。 
 
第一コリント12:7
しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
 
第一ペテロ4:10
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい
 
 上記の聖句に共通しているのは、仕え合うことによる信者のである。すなわち教会の建て上げであり、信者の成熟である。神の益となるためとか、リバイバルのためにとは、聖書のどこにも書かれていないのだ。聖書に書かれていないことを追い求めるのは、正しいだろうか。はっきりと書かれているとおりにしたほうが賢明であることは、言うまでもないことである。
 
 それゆえ、繰り返しになるが、「だからクリスチャンは、イエスを模範として奇蹟を行うべきなのだ」という教えには惑わされないでいただきたい。
 
おわり