地獄に行った? ~聖書の十全性と現代の啓示~その4
クリスチャンの中には地獄に行ったことがあるとか、神や天使によって地獄を見せられたと証する人がいます。このような証を信じてもよいのでしょうか。
この場合、①「地獄」という言葉によって、「ハデス」(ルカ16:23)を指しているのか、それとも「火の池」(黙示録20:10~15)を指しているか、②そこに人がすでにいたかどうかによって、その霊的体験の真偽を判断できます。
もし見たのがハデスであれば、そこに死んだ人がいても啓示論には何の問題もありません。ルカ16:23にあるとおり、「ハデス」という霊的な場所が存在しますし、そこには神を信ぜずに死んだ人たちの魂しが、一時的に送られることになっているからです。現時点において、救われずに死んだ人の魂は、この「ハデス」にいます。
しかしもし見せられたのが「火の池」のほうで、そこに人がいたとなると、これは問題です。その体験は、100%神によるものではありません。
なぜでしょうか?
黙示録20:11~15
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
上記の箇所に書かれているとおり、不信者が「火の池」に入れられるのは「大きな白い御座」で裁きが行われたあとです。この裁きは、7年間の患難期のあとであり、キリストの再臨のあとであり、千年王国が終わってからの出来事です。
つまり現時点においては、「火の池」は空っぽで誰もいません。ですから、「火の池」で誰かが苦しんでいるのを見たとか、その人が後悔していたと証する人がいた場合、その証で語られている体験は神によるものではないと、100%断定できるのです。
「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」(マタイ12:37)
証をしている人は善意でそうしているのかもしれませんが、たとえ善意であっても、聖書の真理と異なることを語り、混乱を招いていることは事実です。ですからそのような証を語るなら、上記の御言葉にあるとおり、かの日には神から責任を問われるのです。