大正のリバイバル
「集会は始めより聖霊の臨在あざやかにサタンの妨害を許さず,聖書は旧約より新約より流るる如く御器を通してはたらき,探らるる者,掘り下げらるる者多く,涙をともに流しつつ悔いくず折れて祈り,ひたすら主の前にさけび求むる一つの声となり,俄かに天開かれた如く聖霊の大傾注となりまして,ハッキリと救わるる者,慰められた者,癒しを受けた者など続出,立ち上がって感謝する人,大ごえに讃美する者,先生方は静かに聖霊の御はたらきを見つめておられました。かくてリバイバルの火の手は飯田に燃え上がりました」。
●正しいリバイバル観
「ホーリネス・リバイバルとは何だったのか」(池上良正)より抜粋:http://camel.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/1899/1/SER62_002.pdf
ホーリネス教会史において「大正のリバイバル」と呼ばれてきた一連の出来事は,大 正 8 年(1919)11月に始まり,約 1 年間つづいたとされている。・・・
全国で会員数1,500名足らずの教会は,このリバイバルを契機に活性化され,10年後には 1 万人をこえる教派にまで成長することになる。・・・
ホーリネス教会の機関紙『聖潔之友』をみると,・・・ 3 月の「真のリバイバ ル」(大8.3.6)では,リバイバル現象の具体的な定義にも近いような解説がなされている。「基督教会内に現今でも奇蹟的の事があるのを見たいと思ふなれば聖霊の御働であ るところのリバイバルを見るに限る。これはペンテコステ以来時々教会内に起りしところの霊的覚醒である。一個人のリバイバルは常にある。しかし此処にいふところのリバイバルなるものは教会全体又は国全体が霊の力に揺動かさるゝといふ不思議なる神の御業である。
(中略)真のリバイバルは祈り祈つて遂に起りし天的運動で所謂大挙伝道式のものでなく何の広告がなくとも聴衆が自然と引付られて集り祈にも説教にも自由があり何等技巧を用ひずともどしどし悔改する者が起るといふ不思議な現象を指すのである」。・・・
リバイバルが起こった大正 8 年11月という時期を考えるとき,もうひとつ注目しておきたいのは,ちょうどこの年からホーリネス教会ではクリスマスの祝いが全廃されたことである。10月の「降誕節の全廃」(大8.10.30)という記事によれば,その理由はいくつか挙げられているが,最も中心におかれているのは,じっさいのクリスマスは12 月ではないという歴史的な理由と,最近のクリスマスはますます俗化して未信者たちが 騒ぎまわる娯楽日になってしまっている,という理由である。・・・
「信州飯田のリバイバル」という回想によれば,事の起こりは大正 8 年の11月,信州飯田の教会で,多額の献金をした下平という信徒の父親の追善記 念伝道会が開かれることになり,17日の夜,その祈りの準備をするために東京の淀橋 教会で徹夜の祈り会が催された。秋山が中心となり柘植,それに小原十三司(1890‒ 1972),鈴木仙之助など数名が参加した。島地の叙述によれば,一同が祈っているとサ タンも妨害をはじめ,眠らされる者,理屈を言わされる者も出てきた。一時はある一人(鈴木仙之助と思われる)が聖書知識や理屈をこねたため,会は重苦しい雰囲気になっ た。しかし,「秋山先生は,これこそ聖戦の邪魔するサタンのわざと申されまして,御 一同この見えざる敵に向かって祈りは集中されました。なかなか頑固に頑張っておられましたが,とうとう主は勝ち給いまして,午前二時三十分つきぬけました。サタンは去りました。全き大勝利となり,大感謝で讃美しつづけました。まことにリバイバルの火の手はこの夜降りましたのでした。ハレルヤ」とある。午前 2 時半の「つきぬけました。サタンは去りました」という叙述は抽象的だが,およその雰囲気は推察できる。おそらく理屈で抵抗していた鈴木が泣いて悔い改め,全員が激しい喜びと感動に包まれ,泣きながら手を取り合う,といった状況が現出したのであろう。秋山,柘植,小原らはその日の夜行で飯田に向かい,ここでも昼は静想会,夜は「サタン打ち」と名づけた祈り会が 4 日間にわたって続けられた。再び島地の回想によれば,「集会は始めより聖霊の臨在あざやかにサタンの妨害を許さず,聖書は旧約より新約より流るる如く御器を通してはたらき,探らるる者,掘り下げらるる者多く,涙をともに流しつつ悔いくず折れて祈り,ひたすら主の前にさけび求むる一つの声となり,俄かに天開かれた如く聖霊の大傾注となりまして,ハッキリと救わるる者,慰められた者,癒しを受けた者など続出,立ち上がって感謝する人,大ごえに讃美する者,先生方は静かに聖霊の御はたらきを見つめておられました。かくてリバイバルの火の手は飯田に燃え上がりました」。