ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ビル・ジョンソンへのインタビュー

シッド:一つの例で説明してください。ある人があなたの所に来て、「腰が痛いのです。」と言ったとします。その時、あなたの心の中ではどのようなプロセスがあるのですか? 何をするのですか?
 
ビル:イエスは彼のところに来た人たちをすべて癒されましたし、御父が示された人はすべて癒されました。イエス•キリストが完全な神学であると私は信じますので、あたかもイエスが私の立場におられるかのようにその人に仕えるというのが常に私のアプローチです。イエスだったら起こったに違いにない癒しが時には起こらない事もありますが、私は自分の経験のレベルでもって期待の基準を下げたり、聖書の基準を下げたりはしません。
 
引用したサイト:オン・ファイヤー・ジャパン
 

 上記の記述は、「シド・ロスの超自然的なわざ」という番組に出演したビル・ジョンソンのインタビューの一部です。
 
 ビル・ジョンソンは、とても洗練された知恵のある人だと思います。上記の言葉も、表面的には、クリスチャンとしてカッコイイ信仰姿勢だと思わされます。
 
 しかし私たちは、使徒と呼ばれている人の言葉であっても、「はたしてそのとおりかどうか」聖書を調べる必要があるのです(使徒171011参照)。
 

●検証
①「エスは彼のところに来た人たちをすべて癒されましたし、御父が示された人はすべて癒されました。
 

 この言葉の背景になっている聖書箇所は、恐らく以下のような箇所です。
 

マタイ8:16~17
夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった

ヨハネ5:19 
まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。

 
②「エス•キリストが完全な神学であると私は信じます・・・エスだったら起こったに違いにない癒しが時には起こらない事もあります

 
 ジョンソンさんは、福音書の中ではイエスがすべての病人を癒やしているので、現代でも同じであるはずだ、と考えているのです。
 
 しかしこの考え方は、聖書全体の主張を捉えていません。
 

ヨハネ10:37~38
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。
 

 この御言葉にあるとおり、イエスがしるしを行ったのは、神から遣わされていることを示すためでした。
 
 神から遣わされていることを証明する必要があったのは、初代の使徒たちにも同じでした。次の御言葉がそれを教えています。
 

へブル2:3~4
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました
 

 つまり、イエス使徒をとおして、病人がすべて癒やされたのは、神が遣わしていることを示す特別なしるしだったのです。

 しかしこんにちは、もはやそうする必要がありません。誤りなき神の言葉である聖書が、イエス使徒たちの言葉の真実性を証しているからです。
 
 また聖書時代でさえも、イエスの御心は必ずしも全員を癒やすことではありませんでした。次の箇所ではっきりわかります。 
 

第二コリント12:7~9
そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。と言われたのです

 

 ジョンソンさんは、必ずしも癒やしが起こらない理由を「自分の経験のレベル」の問題だと言っていますが、それは違います。神の御心が、もともと全員を癒やすことではないのです。
 
 ジョンソンさんは、全員が癒されることが「聖書の基準」だと考えていますが、聖書の基準は、第二コリントの箇所からわかるように、ケース・バイ・ケースだということです。その人に対する神の御心によるのです。
 
 癒やしの祈りが答えられるか否かは、そのほかの祈りの場合と、何ら変わりません。
 

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(第一ヨハネ1:14)



 これが、癒やしに関する「聖書の基準」です。
 
 アメリカのカリスマ・ペンテコステ派の教役者の言うことには、注意しなければなりません。
 
 ほんのわずかなパン種(偽りの教え)が、日本のクリスチャンの中で醗酵して膨らむことがありませんように。
 


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