ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

私は兄弟を裁いているのでしょうか?

 ベテル教会の或る教役者が著書の中で、クリスチャンは批判し合うべきではないと言っていました。
 
 もしこれが、カルバリ・チャペルの牧師の言葉であれば、私は「アーメン!」と言います。
 
 彼らは、教会が一致できるのは教理的な点でではなく、愛し合うという点においてだけだと主張しているからです。
 
 しかしベテル教会の場合は話が違ってきます。彼らが批判を避けようとするのは、自分たちの教えの間違いを指摘されることの逃げ口上にしているからです。
 
 私は、相手を裁くことになるかどうかは脈絡によると思います。
 
 
●クリスチャンの誤解
 
 しかしある方々は、聖書は裁いてはならないと教えているではないか、と言うかもしれません。
 
 この「さばく」というテーマについて、中川健一先生の解説を引用します。

                 (引用元:http://seishonyumon.com/question/245/
 
マタイの福音書712には、
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」
とあります。これは、裁きに関する一般原則です。この教えが語られた文脈を考えながら、その意味を理解する必要があります。
 
(1)エスは山上の垂訓(マタイの福音書5章〜7章)において、口伝律法(ミシュナ)を否定しておられます。パリサイ人たちは、モーセの律法の外側に多くの規則や伝統を作り上げていました。これを口伝律法と言います。イエス時代になると、この口伝律法が人々を束縛するようになっていました。
 
(2)「さばくな」という命令は、口伝律法に基づいてさばくなという意味です。当時は、口伝律法にどれくらい従っているかで、その人の霊性が評価されたのです。これは、聖書の教えを逸脱した行為です。口伝律法で人をさばくなら、自分も同じ口伝律法でさばかれることになります。しかし、すべてのさばきは、聖書に基づいて行われるべきなのです。
 
(3)「さばくな」という命令は、いついかなる場合でもさばいてはならないという意味ではありません。「さばく」とは、物事の理非を判断することでもあります。そういう意味での判断が必要な場合があります。教会内の罪、教会内の争い、教理上の間違い、などがそうです。いずれの場合も、放置すると深刻な結果を招くことになります。
(答えた人:牧師 中川健一)
 
 
●私の場合
 
 繰り返し述べているとおり、私は日本のクリスチャンたちに間違った教えに翻弄されてほしくないのです。ですから私の場合、上記の③「教理上の間違い」の範疇に入ります。
 
 また聖書には以下のような言葉もあります。
 
 
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。(ローマ1514
 
 
教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。
                                  (テトス19
 
ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にしユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。(テトス11314
 
 
人を懲らしめる者は舌の滑らかな者より喜ばれる。箴言2823、新共同訳)
 
 
訓戒を大事にする者はいのちへの道にあり、叱責を捨てる者は迷い出る。箴言1017
 
 
訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ。箴言121
 
 
●天を地にもたらす
 
 ちょっとビル・ジョンソン的な言い回しをしてみようと思います。
 
 天は神のきよさと、神の義で満ちています。
 
 ですから天を地にもたらす、ということは、人の罪や過ちに対して天の価値観をもって対処する、すなわち神の言葉を適用することなのです。
 
 聖書の中で神の民が聖徒と呼ばれているように、教会もまた、霊的にきよくなければなりません。
 
 しかし実際の教会は罪人のかしらの集まりですから、天の価値観を教会に浸透させるためには、互いに戒め合う必要があるのです。
 
 難しい言葉を使えば「教会の自浄作用」ということです。
 
 教会に自浄作用が働かない場合、教会はカルト化します。
 
 この原則はクリスチャン個人にも当てはまります。
 
 中川先生が「深刻な結果を招く」と指摘しているとおり、
 
間違った教えを信じたままでいるなら、その人はカルト的なクリスチャンになってしまうのです。
 
 私はみなさんにそうなってほしくありません。
 
 だから私は、教理的な間違いを「きびしく戒めて、人々の信仰を健全に」しようとしているのです。