どうしてウザは死んだのか? ~現代のウザにならないために~その2
その1の記事では、ウザの死の理由を説明しました。この記事では、神の聖さを示すヘブル語コデッシュやモーセがくつを脱いだ意味を学びます。
●神の聖さ
あるサイトでは神の聖さについて、次のように説明しています。
神の聖という性質は、神の性質の中でも説明には最も難しい性質です。部分的にはなぜかというと、それは神の本質的な性質の一つで、人間にはないものだからです。私たちは神に似せて造られました。そして、神の性質を、もちろん神ほどではないにしろ、いくらか持っています。 ―愛、憐れみ、忠実など。しかし、神の性質のいくつかは、被造物には絶対ないのです。― 遍在、全知、全能、そして聖さがそうです。神の聖さは、他のすべてのものから神を切り離し、神以外のすべてのものと区別するのです。神の聖さは、ただ神が完全であるとか全く罪がなく清いという以上に、神の”他者たること”、超絶性の本質なのです。神の聖さは、畏怖を起こす奥義を具体的に現わしたもので、私たちがほんの少し神の威厳を理解し始めて、驚きを持って神を見上げるようにさせるものです。(原文ママ、強調はダビデ)
●聖なる地
「聖さ」という言葉が初めて聖書に登場するのは、出エジプト記3:5です。
「聖なる地」と訳されている部分は、「聖さ」を意味するヘブル語「コデッシュ」と、アダムの語源になった語で、「地」を意味する「アダマー」、この二つの名詞で構成されています。つまり「聖地」というのが直訳になります。
またコデッシュには、「(他と)異なる」という意味もあります。そしてこの「異なる」というのは、創造者と被造物の質の違いを表しています(注1)。
創造主と被造物の質の違いですから、その差は無限です。
はじめからおられた方と、あとから造られたものの違いです。
私たちはこの違いを胸に刻まなければなりません。
無限に違うお方が、被造物の姿をって、被造物の世界で暮らし、私たちの身代わりに「罪」となってくださったのです。
それゆえキリストのへりくだりは、無限です。聖と罪の差が無限だからです。
無限に違うからこそ、神は、人がその聖さに触れて死んでしまわないように、モーセを通して聖所の備品に関する教えを授けました。
しかしダビデやウザは、その神の聖さにかかわる規定を知りませんでした。そのために、ウザは死ぬことになったのです。次の御言葉のとおりです。
●サンダル(くつ)の意味
一方、履物は地に直に接するものです。それゆえ「くつ」は、地のけがれを象徴しています(注2)。
ところがモーセが立っていた場所は、神の臨在のゆえに「聖なる地」になっていました。
それゆえモーセは、サンダルを脱がなければならなかったのです。
神は「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」という表現は、まさに神の聖さを知る者の言葉ではないでしょうか。
注1と注2・・・参考サイト:http://www.enduringword.com/commentaries/0203.htm
●神の聖さは不変
先程のサイトは、イザヤ6:3と黙示録4:8の神の幻について次のように述べています。
神のみ座の周りで、み使いたちが「聖なる、聖なる、聖なるかな。」と叫んでいる二つの幻は、神は明らかに旧約でも新約でも変わらないことを示しています。私たちは、しばしば旧約聖書の神を怒る神、新約聖書では愛の神だと思いがちです。しかし、イザヤとヨハネは私たちの聖なる、威厳と畏怖の神は、変らない神(マラキ3:6)だという統一した像を見せてくれます。神は、「きのうもきょうも 、いつまでも同じ」(へブル13:8)で、「移り変わりや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)神の聖さは、神が永遠であるように永遠なのです。(原文ママ、強調はダビデ)
つづく