どうしてウザは死んだのか? ~現代のウザにならないために~その4
その3では、神の啓示という神聖な領域をけがした人物の霊的雰囲気と教えの内容を見ました。この記事では、ブラナムの問題点と死について述べます。
●ブラナムの問題点
ブラナムの問題点について、リック・ジョイナーに説明していもらいましょう。
預言は教義を確立したり、変更したりすることには決して用いられません。カルトや分派がどのように始まったかを調べてみると、その多くは、ある人が預言的啓示を用いて新しい教義を確立しようとしたことに端を発していることがわかります。教義は書かれた御ことばだけが入れる領域です。真の預言がそのために用いられることは決してありません。
多くの人がウイリアム・ブラナムも同じ過ちを犯してしまったと考えています。彼は著しい預言の賜物を持っていて、ある一時期、世界を揺り動かしました。しかし彼はやがて奇妙なことや人びとの益にならないことを教え始めました。私は彼と親しかった人たちから聞いたのですが、彼のミニストリーのマネージャーが自分が信じていた極端な教えを推進するためにブラナムを利用したということです。ブラナムも後になってそれに気付き、深く悔いたそうです。ブラナムをよく知っていた人たちはすべて、彼が本当に謙虚で人の意見を素直に聞く人であったと言っています。それは彼が初代教会以来であろうと思われるような多くの奇蹟を行っていた最中でもそうだったということです。これは惑わしに関するもう一つのよい教訓です。(中略)
私たちはいくら謙虚と言っても、聞いたことが真理かどうかを調べないほど謙虚であってはなりません。特に自分がそれを教えるならばしっかりと調べなければなりません。教会や同様のミニストリーをしていた多くの人たちが、ブラナムが教えていたことの幾つかに対して異議を表明しました。又、彼らはブラナムを異常に崇拝していた人たちに対してもその間違いを指摘しました。ブラナムをよく知っていた人たちはこの点でも彼が悔いていたと言っています。彼は自分が車の事故で火に包まれて死ぬことを正確に預言しました。そして、それは多くの人たちが彼を崇拝し始めたので、自分がどれほど唯の人間に過ぎないかを主が世に示すためであると言いました。(強調はダビデ)
●ブラナムの死
1965年12月18日、クリスマス休暇のために、ブラナムは家族を連れてアリゾナのツーソンからインディアナのジェファーソンビルに向かっていました。夕暮れ時、テキサス州フリオナの約5キロ東で、東に向かう車線を逆走してきた車がブラナムの車に正面衝突しました。ブラナムは、テキサス州アマリロの病院に運ばれましたが、怪我のためクリスマスイブに息を引き取りました。
ゴードン・リンゼイは弔辞の中で、ブラナムの死は神の意志であったと述べました。それはケネス・ヘーゲンの解き明かしを個人的に受け入れて発言したものでした。ケネス・ヘーゲンはブラナムの事故死の2年前に、彼の死を予告していました。ヘーゲンによると、ブラナムは間違った教理を教えており、ブラナムの不従順のゆえに神が彼を取り除く、という啓示がありました。
●いばらやあざみ
私はブラナムに関して思うとき、以下の箇所が思い出されます。
へブル6:4~8
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、
そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、
やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
●まとめ
イエスの異父兄弟ユダは、誰かが伝統的な教えを歪めようとするなら、戦いなさいと言っています。
聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。(ユダ3節)
特定の人物にどれほどしるしと不思議が伴ったとしても、それはその人の教えが神から来ていることの証明にはなりません。
神の啓示はすでに聖書という形で完成しているからです。
もはや教えの是非を証明するための、神による太鼓判ではないのです。
ほんとうの神の教えかどうかを判断する基準はただ一つしかありません。聖書です。
ブラナムは聖霊による新しい啓示の名のもとに、聖書の教えを変更しました。
誰であろうと、聖書という神聖な領域に立ち入り、その教えに混乱をもたらすとき、たとえそれが無知のゆえであったとしても、その刈り取りをすることになるのです。
神は聖なる方だからです。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)