ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ベテル教会の闇 パート4


ニセの「イエス」の正体 ~極端なペンテコステ主義から解放された妻~ 
 
 このニセの「御霊」、つまりニセの「イエス」は肉を喜ばせます。ニセの「イエス」は私の許可を受けて心の中に入りました。もし私が主の性質をよく知っていて、聖書の基礎的な教えを知っていたら、このニセの「御霊」を体験していたときの自分の態度を見て、その霊が偽物だと見破っていたはずです。私が本物の聖霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制だと知っていたら、そしてもし私が、実の比較という小テストをしていたら、自分に柔和、自制、寛容、平安そして愛が欠けていたことにはっきり気づいていたはずです。私が心に受け入れてしまったものは、短気、怒り、荒々しさ、自制はまったくなし、混沌、狂気を求める肉、野心そして利己的な願望でした。
 
 ニセの「御霊」を見分ける二番目の方法は、聖書の神のご性質と、自分が心を開くことにした霊の性質を、真っ先に比較することです。その霊の性質が、神の言葉と一致するかを見るのです。
 
*神がどのようなお方かを見る。(秩序と平安の神です。)
 
*教会の集会の秩序を見る。(混沌はなく、異言が語られた場合は解き明かしがあり、異言を語る人が二人か三人以下で、順番に語っていること。複数の人が同時に語らないこと)
 
*これらの現象が、出エジプト記でアロンの息子たちが捧げた異なる火に似ていないかを見る。(本当に聖霊による働きか)
 
*教会の指導者を見る。(敬虔な人格の持ち主であるべき。平安、自制、柔和の人、物静かで謙遜な人であるべき)
 
*神を指し示す教えかどうかを見る。(イエス・キリストだけを信頼するよう導き、あなた自身や他の人やミニストリーに依存させない内容)
 
*会衆が主の権威に従っているかを見る。(従っている人は平安であり、落ち着いた性格、物静かで温厚)
 
*自我と肉に死んでいるかを見る。ニセの「御霊」は、全体的に肉の性質を満足させる働き方をする。主の前にひれ伏すというより、可能な限り自分を表に出させる。自分のために油注ぎを受け、自分のために霊的現象を体験する。しるしと不思議も自分のためにある。これではイエス・キリストの生涯とまったく逆です。イエスは自分を完全に犠牲にして、代わりにクリスチャンたちを生かしました。私たちは自分の体/肉を打ち叩いて、従わせるべきです(第一コリント927)。
 
*本当の主の福音は人には受けません(人気がありません)。私は、人が大勢集まっているところには真実な悔い改めがないことに気づきました(人々の生活に大きな変化が伴っていないのです)。私たちは細心の注意を払いつつ、前進する必要があります!主の道は狭く、人には受けないからです。
 
*終末のニセ教師とニセ預言者に注意すべきです。私たちが終末の時代にいることは、疑う余地がありません。ですからたとえパリサイ人と呼ばれるのが嫌だとしても、見分けのスイッチをオフにしてはなりません。
 
Q:惑わされやすいと、神から責任を問われるでしょうか?
 
 私たちは真理なる神の言葉を学ぶことができます。神の言葉は、終末にはどのような惑わしがあるのか詳しく具体的に警告してくれます。それでも私たちは簡単に惑わされてしまうのです。私は熱心なクリスチャンから前もって警告されていました。でも道から外れることを選んだのです。こんどは私たちが他の人たちに熱心に警告していますが、その人たちもニセの「御霊」によって自分を汚すことを選択しています。
 
Q:教会にニセの「御霊」を持ち込む「神の人」と呼ばれる人たちに、私たちが魅了されやすいのはなぜでしょうか?
 
 大抵の場合、彼ら自身が惑わされています。それで今度は彼らが惑わす側になるのです。
その惑わしの目的は、忍び込んで私たちから奪い取ることです!このようなことが教会の中で起きると、なぜ私たちは驚くのでしょうか。サタンは7000年余りの間、人を騙して奪い取る最善の方法を学んでいるのです。もちろんサタンは、現代の教会にいる人々にも影響を及ぼし続けます。サタンが惑わしをやめると考えるのは愚かです。裁きの日に、主であり王である方と向き合うとき、私たちは言い訳できません。そのとき私たちは、騙されてニセの霊を受け入れたことに気づくことになります。ですから私たちは理解を深め、惑わしに備えるべきです。
 
Q:サタンに気づき、見分けるにはどうすればいいのでしょうか?
 
 サタンは肉の性質を誘惑して私たちを惑わします!「聖霊のム-ブメント」と呼ばれているものを目にしても、サタンは驚きません。なぜならそのムーブメントは、「私たちを気持ちよくするもの」、「感情をハイにするもの」であり、「肉的な願い」を満足させて、混沌や、嫌気がさすような振る舞いや、気違いじみた行動などに導くものだからです。
 
Q:「霊的なハイ状態」が欲しくて仕方なくなるのは、どうしてなのでしょうか?
 
 このような精神作用は、聖書のどこにも書かれていません。聖霊は弟子たちの上に臨みましたが、そのあと彼らは福音を伝えるという目的のために出て行きました。「油注ぎ」をもっと手に入れるために、カンファランスからカンファランスへ、集会から集会へと渡り歩いたりはしませんでした。
 
 私の暗闇の日々を振り返ると、こういった「ムーブメント」の中にいた人々や彼らの友だちの態度を、とてもはっきり思い出すことができます。(自分も含めて)彼らの態度は、それまでに見たことがないほど利己的で横柄でした。私たちは「聖霊」と呼ばれているものの中で、繰り返し「霊的なハイ状態」や霊的な現象や陶酔、「愛されている感覚」などに飢え乾いていました。そういったことに夢中になればなるほど、肉の願いを満たしたいという衝動や動機が強くなっていきました。この肉の性質、肉的なものを求める衝動のほうが、世界に出て行き福音を広め、イエスの名によって罪人を救おうという思いよりもずっと強かったのです。私は自分ことしか気に掛けていませんでした。正直言って、あのときの私には、他のクリスチャンに対する真の思いやりや愛はありませんでした。いつも自分のことばかり考えていたのです。
 
 また私は、その人たちが怒りも体験しました。彼らは、ムーブメントの背後にある真実について尋ねられたり、ニセの霊だと言われると怒ります。まるで怪物が獲物をとられないように守ろうとしてような感じになります。とても醜くて、かなり恐ろしくもあります(私が怪物と表現した理由はそこにあります)。私自身もこの醜さを現しましたから、実体験した者としてお話しするのです。その人たちは、自分をニセの「御霊」、ニセの「イエス」に売り渡しています。悪魔は、彼らの心と願望をしっかり握っています。このニセの「御霊」はその人たちを気持ちよくしてくれるので、彼らは他の何よりもしっかりと、そのニセの霊にしがみつきます!彼らの肉は、それを握りしめることに必死です。そして真実が現されないように、必死になっているのです。
 

終わり


引用サイト:クロスワイズ ~真理の中を歩む~