イエスの愛は闘う愛
公生涯のはじめから終わりまで、イエスは律法学者やパリサイ人の偽りが、人々を神から遠ざけていたことを責めました。
弟子たちははじめ、その意味がわかりませんでしたが、
「パン種」とはパリサイ人の教えであることに気づきます。
16:6の「注意して」はホラオーというギリシャ語で、
「両目で見る」「知性によって見る」「体験によって知る」などの意味があります。
「気をつけなさい」はプロセホーという言葉で、
「~を近づける」「思いを~に向ける」「自分の面倒をみる」という意味があります。
つまりイエスは、目を使い、頭を使い、体も使い、
自分を大切にするという意味を込めて、
「注意して気をつけなさい」と言っておられるのです。
そうです。
私たちは、間違った教えに対して、それほど注意深く気をつける必要があるのです。
●現代のパリサイ人
現代を生きる私たちは、現代のパリサイ人のパン種に気をつけなければなりません。
現代のパリサイ人も同じです。
彼らは、イエスさまにしるしばかり求めています。
マタイ23章では、このようなパリサイ人たちに対して、
これは、きわめて激しい批判的な態度です。
どうしてでしょうか。
彼らの教えが、本当に重要なものを覆い隠していたからです(同23:23)。
●十字架の愛とは
教会に向けられたイエスの愛は、現代人にはなかなか正しく理解されません。
エペソ5:32でパウロは、
「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」と言い、
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」と諭しています(5:25)。
キリストが教会を愛した愛とは、どのような愛でしょうか。
妻が危険な目に遭ったときに、自分が身を挺して守ることでしょうか。
もちろん夫はそうすべきですが、
多くの場合、キリストの愛に関する理解は25節で止まってしまい、
その後の節まで進みません。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(同5:26~27)
「キリストがそうされたのは」の部分は、25節のキリストの命がけの愛を受けています。
この26節は、ヒナーというギリシャ語で始まっています。
ヒナーは、目的を説明するための接続詞です。
そういう愛で妻を愛せと、パウロは教えています。
夫は妻が聖くなることを願い、またそのために行動する必要があるということです。
このように十字架の愛は、間違った教えや教会の汚れを放置する愛ではありません。
(罪や過ちを)赦すことと、(罪や過ちを)許すことは別のことなのです。
十字架の愛は悔い改めるときに如何なる罪をも赦しますが、放置はしません。
愛の対象となっている者が聖められることを願うのです。
ですから、もしどこかの教会に間違った教えが入り込み、それが放置されるなら、
その教会の牧師は、教会をイエスの愛で愛していることにはなりません。
信徒が間違った教えを信じても、それを放置するなら、
その信徒に対する牧師の愛は歪んでいるのです。
またクリスチャンひとり一人も、「自分の面倒をみる」という意味で、
自分を偽りの教えから守る必要があります。
それが十字架の愛で自分を愛することであり、兄弟姉妹を愛することなのです。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。(黙示録3:9)
イエスの愛は、うその教えを放置しないのです。