「私はキリストにつく」の意味 1コリント1:12の考察 その2
その1では、「私はキリストにつく」の意味を学びました。
コリント教会内には、エリート思考のゆえに人間の指導者にはつかず、
自分たちはキリストにしかつかない、と誇っている人たちがいたことを理解しました。
「イエスこそ最高の神学です」という、誰かの独善的な姿勢に似ています。
●キリスト派とカルト的信仰
この「キリスト派」は、現代のカルト的信仰を想起させます。
カルト的信仰の特徴の一つは、「自分たちが一番だ」と思っていることです。
言い換えると、
「他の教会は自分たちより劣る」と思っています。
ほかの教会を見下す。
これは明確なカルト的信仰の特徴です。
彼らを通してご自分の真理を啓示しました。
しかし「キリスト派」は、ペテロもパウロも認めませんでした。
この姿勢は、キリストが使徒を任命した意図を無にしています。
使徒たちを認めないなら、
使徒を通して注がれるキリストの真理を受けることができないことになります。
それでパウロはこう叱責しました。
「キリストが分割されたのですか」(第一コリント1:13)
現代にも、そういうクリスチャンや教会があります。
他教会のメッセージには学ぶところはないと思っていたり、
ひどい場合は、他教会のメッセージを聞くと惑わされてしまう、と思っています。
これはまったく反イエス的な態度です。
イエスが自分たちだけに真理を注いでいると勘違いしているのです。
「いったい誰が、あなたを優れた者と認めるのですか。・・・なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。」(4:7~8)
独りよがりな姿勢でキリストを知ろうとしても、偏った信仰になってしまいます。
そういう信仰は、いつまでたってもイエスの身丈まで成熟しません。
伝道者と教師の機能も果たすことはありません。
「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」には、
いろいろな教役者の知恵や知識を受ける必要があるのです(エペソ4:11~13)。
この意味で、もっともカルト化しやすいのは、単立の教会で、
牧師が独特の聖書解釈をする教会です。
つづく