ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「私はキリストにつく」の意味  1コリント1:12の考察 その3

 
 その2では、現代の私たちも「キリスト派」になる危険性があることを述べました。
 
 この記事では、現代のグノーシス主義について説明します。 
 
 
 
 カリスマ・ペンテコステ派の中で広まっている非聖書的な教えは、
 
 福音派の場合とは生み出される行程が違います。

 
 福音派において代表的な教義的間違いといえば、終焉説です。 
 
 聖書の完成に伴い、あるいは最後の使徒の死に伴い、
 
 神による超自然的なわざは終焉した、という考えです。
 
 この終焉説の場合、

 それなりの聖書的根拠があってそういう結論に達しいています。
 
 
 しかしカリスマ・ペンテコステ派における間違いの場合は違います。

 
 ひとつの聖句だけを取り出してそれを曲解したり、
 
 まず説教者や著者の持論が先に存在していて、
 
 それに聖句をこじつけることにって、

 あたかも聖書の教えのように見せかけています。 
 
 後者の場合、もはや聖書解釈とは言えません。

 
 これはグノーシス的概念のご飯の上に、
 
 聖句というふりかけをかけて、
 
「さあ、お食べ」と差し出しているようなものです。
  
 
 
 グノーシス主義とは2世紀頃に生まれて3世紀頃には教会を悩ませた発想形態で、
 
 ①物質=悪  霊=善 という二元論と
 
 ②「より高い知識」と呼ばれ、一部の人にだけわかる真理の知識
 
 の2つから構成される考えです。
 

 
 

 カリスマ・ペンテコステ派に出回っている異説は、

 実質的に②の発想と同じです。
 
 
 しるしや不思議を追いかけている人たちにとっては、

 大教会の牧師だとか、有名な預言者だとか、
 
 しるしと不思議が伴う使徒と呼ばれる人が、
 
 キリストの名によって語る教えなら何でもいいのです。
 
 難しいことは言わずに盲目的に信じる、それが彼らのメンタリティーです。
 
 
霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです(第一ヨハネ41
 
 
 しかし聖書はそう教えていません。
 
 ヨハネが第一の手紙を書いた理由は、
 
 彼の存命中に、グノーシス主義の影響が教会に入り始めたからだと言われています。
 
 
 上記の聖句の「試しなさい」という言葉は、ドギマゾーというギリシャ語です。
 
 ドギマゾーには「試験の後に本物だと認める」という意味があります。

 
 ですから聖書的な信じ方というのは、
 
 まず教えの内容を精査して、

 本物だとわかってから信じる信じ方なのです。

 
 つづく