ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

妄信と信仰の違い その1 ~ギリシャ語・ヘブル語が意味する信仰とは~

 
 新約聖書の中で「信じる」と訳されているギリシャ語は、ピスチュオーと言います。
 
 新約聖書ではもっぱら「信じる」と訳されていますが、

  ギリシャ語辞典を見ると他にもいろいろな定義が書かれています。

 
本当だと思う」「~について説得される」「信用する」「~に確信を持つ 

 
 
 
 これをローマ43に当てはめてみましょう。
 
 創世記ではこの箇所の前に主の語り掛けが書かれています。

 
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」創世記155) 
                               
それでアブラハム神を信じた。それが彼の義と見なされた。」(ローマ43)
 
 
 
主の約束を本当だと思った
 
主の約束に関して説得された
 
主というお方を信用した
 
主の約束に確信を持った
 
ということになります。
 
 
●ヘブル語 アマーン/aman
 
 
このサイトにはヘブル語の「信じる/アマーン」の説明が書かれています。
 
AMAN AND AMEN - AMAN is the Hebrew root of AMEN & means to believe (have faith), to trust, to stand firm. At the heart of the meaning is the idea of certainty, firmness, dependability, trustworthiness. The primary meaning is that of providing stability & confidence, like a baby would find in the arms of a parent. We see a depiction of the meaning in 2Ki 18:16 where AMAN is translated “doorposts” describing the PILLARS supporting the Holy Temple. In the first & most important use of AMAN, Moses records that Abram “believed (AMAN) in Jehovah & He reckoned it to him as righteousness.” (Ge 15:6) Abram did not just give mental assent to God's promise (Ge 15:5), but he relied on that promise, “throwing his full weight” so to speak on God’s promise & making a firm, forever personal commitment. In other words Abram's faith was not only cognitive (mental act of acquiring knowledge) but also personal for he committed to stand firm on God’s promise, in a sense giving God a hearty “AMEN” (So be it, Let it be so), which is exactly what we did when we believed in Jesus Christ as Savior & Lord. 
 
訳文
アマーンは、アーメンの語源になっている言葉です。「信じる(信仰を持つ)」「信頼する」「堅く立つ」という意味があります。その意味の本質は、確かさであり、堅固さであり、当てになることであり、頼りがいがあることです。もっとも重要なのは、安定性と確かさがある、という点です。たとえば、両親の腕に抱かれている赤ん坊が感じるような安定性と確かさです。第二列王記1816では、アマーンが「柱」という言葉に使われています。神殿の扉の柱です。また、アマーンが使われている中でもっとも重要な箇所では、モーセが、アブラムは「主を信じた(アマーン)。それが彼の義とみなされた」と記しています(創世記156)。アブラムは神の約束(同155)に対して、単に精神的な同意を示したのではなく、その約束に寄り頼んだのです。寄り頼むとは、神の約束に全体重をかける」ということ、恒久的に揺らぐことのない人格的信頼をおく、ということです。言い換えると、アブラムの信仰は単なる認識ではなかった、つまり知識を得るという精神的な活動に留まらず、人格的な営みだったということです。なぜならアブラムは、神の約束に堅く立つ決心をしたからです。ある意味アブラムは、神に対して心からの「アーメン」(その言葉通りになりますように)を捧げたのです。私たちがイエス・キリストを救い主また主として信じたときと、まったく同じことです。(強調はダビデ

つづく