ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

妄信と信仰の違い その2 ~悪い見本と聖書の見本~

 
 その1では、ギリシャ語とヘブル語の「信じる」という言葉の意味を学びました。この記事では、「信じる」という行為を、どのような条件の中で行うべきかを述べます。
 
 
●悪い見本~油まき事件
 
 カリスマ・ペンテコステ派の教会では、
 
 説教者が聴衆に対して「アーメンですか?」と同意を求めることがしばしばあります。
 
 聴衆は不信仰なクリスチャンにはなりたくないため、
 
 肉的な勢いで「アーメン!」と叫びます。
 
 そして説教者の主張を鵜呑みにします。
 
 これは悪い信じ方の見本です。
 
 なぜでしょうか。
 
 説教者の主張が、アーメンして良いものなのかはっきりしていないからです。
 
 
 その最たる実例が、油まき事件ではないでしょうか。
 
 金山昌秀は講演家であり説教者でした。
  
 一番問題があるのは彼ですが、
 
 彼をしばらくの間受け入れていたペンテコステ教会の牧師、
 
 また彼の集会に参加していた信徒の方々、
 
 どちらも彼の主張に乗せられていたのです。
 
 
 このブログを訪問する人の中にも、
 
 金山の集会に出たことのある人や、
 
 彼を受け入れていたペンテコステ教会のメンバーの人がいるかもしれません。
 
 その教会の人たちが惑わされた原因は、説教者の主張を鵜呑みにしたからです。
 
 失敗から学ばなければなりません。
 
 
 この事件が許された理由は、
 
 日本の教会が聖書から逸れた教えを受け入れていることに対する
 
 主の警告かもしれません。
 
 
●アーメンすべき条件
 
使徒171112
11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた
12 そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいったピスチュオー
 
 
 上記の箇所で、ベレヤのユダヤ人に語ったのは使徒パウロです。
 
 ベレヤの人々はパウロの言葉に「全体重をかけて」良いかどうかわかりませんでした。
 
 それで旧約聖書を調べた結果、信頼に足る内容だとわかったので、
 
 「彼らのうちの多くの者がピスチュオーしました。
 
 これが正しい信じ方です。
 
 
 少しずつ聖書を学んでおくべき理由は、ここにあります。
 
 「そのとおりかどうか」を判断できるようにするためです。
 
 
 アブラハムの場合は、どうでしょうか。
 
 「アブラハム神を信じた」と書かれています。
 
 自分に語り掛けているのが神であることがわかっていた、ということです。 
                               
 
 多くの場合、私たちは「信じた」のほうだけに注目します。
 
 そしてアブラハムの信仰はすごいな~、と感動します。
 
 間違いではありません。
 
 
 しかしそれでは偏りがあります。
 
 聖書が「神を信じた」と書いていることに注目する必要があります。
 
 
 信じる対象が確かなお方であるかどうか、
 
 信じてよい内容かどうかに注目する必要があるのです。
 
 
 信じる対象が確かであること、
 
 それがアマーンの前提です。 
 

 アブラハムには相手が主なる神であることがわかっていました。
 
 不確かなものを信じたわけではないのです。
 
 
 しかし私たちの場合はどうでしょうか。
 
 説教者は神ではありません。
 
 言っていることが正しいかどうかは、判断を要します。
 
 ベレヤの人たちのように判断してみて、
 
 正しいとわかってからピチュオーする必要があります。
 
 
 ある人は説教者を疑うのは悪いことだと感じるかもしれませんが、それは違います。
 
 信徒が質問したり、反論したりすることによって、
 
 説教者の聖書知識が深まったり、矯正されたりします。
 
 説教を準備する際も、しっかり調べて準備するようになります。
 
 聖書は、互いに教え合うことや戒め合うことを勧めています(コロサイ316
 
 聖書は「互いに」の輪の中から、説教者を除外していません(第一コリント1426
  
 つづく