ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

妄信と信仰の違い その3 ~癒やしの信仰~


 信仰の領域にはいろいろありますが、
 
 もっとも物議をかもすのは癒やしの信仰ではないでしょうか。
 
 
●残念な実例
 
 私の知り合いに、ビンヤード・フェローシップ
 
 コロラドスプリングス教会の牧会スタッフがいました。
 
 ビンヤードは、アメリカのカリスマ派教会の代表的なグループです。
 
 
 彼には知識の言葉の賜物が与えられており(第一コリント128
 
 まるで旧約聖書預言者のように、
 
 人々の隠れた事実が聖霊によってわかってしまう人でした。
 
 
 あるとき彼の奥さんが乳がんになりました。
 
 二人は信仰の人でしたが、カリスマ・ペンテコステ派的な意味でそうだったのです。
 
 二人は医学的な治療を受け入れずに、神の超自然的な癒やしだけを期待しました。
 
 しかし奥さんは癒やされることなく、家族を残して亡くなってしまいました。
 
 
●癒やしの信じ方の問題点
 
 カリスマ・ペンテコステ派の信じ方の問題点は、
 
 信仰に関して、聖書的な適用の仕方がわかっていないことです。
 
 
 マルコ534に「あなたの信仰があなたを直したのです」と書かれている、
 
 へブル138
 
 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と言っている。
 
 「だから信じさえすれば、必ず癒やされます!」と言って、
 
 神が誰もかれも癒やしてくださると「思い込みます」。
 
 これはピスチュオーやアマーンではありません。
 
 
 確かに、こんにちでもエスが癒やしを行うという性質は変わっていません
 
 しかし今は、癒やしの行い方が変わったのです
 
 
マタイ81617
16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた
17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
 
 
 カリスマ・ペンテコステ派では、上記の箇所を掲げて、
 
 まるでイエスが、今でもすべての病人を癒やすと約束しているかのように教えます。
 
 これは解釈の間違いです。
 
 
 多くの人は
 
 17節の「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった
 
 というマタイによる説明を見逃しています。
 
 
 イエスが「病気の人々をみないやした」のは、イザヤの預言を成就するためでした。
 
 そうすることによってメシアであることを証する、という大切な目的があったからです。
 
 マタイはユダヤ人の読者に、それを教えているのです。
 
 そしてそのイエスの目的は、2000年前にすでに果たされました。
 
 だから今はもう、すべての病人を癒やす必要はありません。
 
 今は病人に対する憐れみと、
 
 神の主権とによって、癒やしが起こるのです。
 
 
 マタイの書き方の特徴について、あるサイトはこう説明しています。
 
マタイは預言者達をしばしば引用し「主の預言者を通して言われた事が成就するためであった」という言い回しを頻繁に用いています(1:22-23, 2:5-6, 2:15, 4:13-16, 8:16-17, 13:35, 21:4-5)
 
マタイはユダヤ人クリスチャン達にエスキリストが真に約束されたメシヤであった事を示そうとしていました。ですから、マタイは他のどの福音書よりも旧約聖書の引用が多く、イエスユダヤ預言者達の言葉を成就した事を示しています。
 
 
 
 上記に挙げられているマタイの箇所を一つひとつ開いてみれば、
 
 マタイ816が癒やしの約束ではなく、
 
 マタイの書き方の特徴であることが誰にでもわかります。 
 
 でもひとつだけ、例を挙げて見ておきましょう。
 
マタイ133435
34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」

 
 上記の箇所でもマタイは、8章と同じフレーズ
 
 「預言者を通して言われた事が成就するためであった」を使って、
 
 イエスが預言を成就する目的で例え話を使って話した、と説明しています。
 
 
 この箇所を「約束」として受け取る人はいますか?
 
 現代でもイエスは例え話ばかりで語る、
 
 という約束として受け取る人はいますか?
 
 いないでしょう。
 
 マタイ81617も同じことです。
 
 「すべての病人を癒やす」という約束ではなく、
 
 旧約の預言を成就したことの説明なのです。
 
 
 カリスマ・ペンテコステ派の説教者や著者が癒やしの約束だと誤解して説明し、
 
 聴衆や読者もそう「思い込んで」いるのです。
 
 聖書は、病人がみな癒やされる、という約束はしていません
 
 つづく