ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たち」とは? その2




 前回は、へブル649に二種類の土地、二種類の人々が描かれていることを説明しました。この記事では残りの部分を説明します。
 
 
4節「聖霊
 
 ブルースは、4節の「聖霊」の部分を原典で見ると、単語の前に定冠詞がついていないので、「ご人格としての聖霊が意図されていると論じることは危険である。むしろ聖霊の賜物か、聖霊の働きという意図で書かれていると論じるべきだ」と指摘しています。
 
 「聖霊」の前に定冠詞がついていないことを確認したい方は、以下のサイトへどうぞ。
 
スクリプチャー4オール/へブル6章pdf:

 
5節「やがて来る世の力
 
 ブルースもパイパーも、未信者でありながら「やがて来る世の力」を味わった人に関してマタイ722を事例に挙げています。
 
マタイ72223
主よ、主よ。私たちはあなたのによって預言をし、あなたのによって悪霊を追い出し、あなたのによって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 

 またブルースは、使徒8章の魔術師シモンにも触れ、「シモンはピリポから神の言葉を聞いてその素晴らしさに気づき、福音の宣言と受け入れに伴うしるしと大いなる力に驚いていた」と述べ5節のやがて来る世の力」を味わうとは、魔術師シモンのようにしるしと不思議を見たり、体験することだとしています。
 
 
6堕落
 
 ブルースは、シモンは「まだ苦い胆汁と不義のきずなの中に」おり、マタイ7章の人々はイエスから「『わたしはあなたがたを全然知らない不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 」と言われている。彼らが真のクリスチャンではないように、4節や5節で描写されている人々が「堕落」することは可能だ、としています。
 
 
④「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人た
 
 へブル1312に「エスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」とあるとおり、イエスの十字架の目的はクリスチャンを聖めることでした。
 
 エペソ526でも「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため」とあり、十字架の目的が信者を聖めることであったことが述べられています。
 
 しかし45節で描写されている人々は、十字架の意味を知りながらも「堕落」してしまう人々です。
 
 彼らは罪の赦しのためにイエス尊い血潮を流したことを知っていましたが、その上で罪の生活に戻っていきます。
 
 十字架の尊さを知った上で罪の生活を選択するということは、十字架のわざよりも、罪の生活のほうに価値を置くことであり、そのような心の姿勢は「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える」ことなのだ、とパイパーは説明しています。
 
 
救いはすでに完成している
 
 へブル書の著者の神学を知れば、6章の箇所の理解の助けになります。著者は10章で次のように言っています。
  
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(へブル1014
 
 
 「全うする」と訳されているのはテレオーという言葉で、「完璧にする」「完成する」「成し遂げる」という意味です。原典ではこれが完了形で使われています。
 
 
 ヨハネ「全うする」と同じギリシャ語使って次のように書いています。
 
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇くと言われた。(ヨハネ1928
 
 
 「聖なるものとされる人々」(正確には「聖なるものとされつつある人々」)とは私たちクリスチャンのことです(1010参照)。
 
 つまりイエスは、十字架によって私たちを永遠に完成してくださった、ということです。
 
 ESVという原語直訳型の聖書は1014を次のように訳しています。
 
For by a single offering he has perfected for all time those who are being sanctified. 
 
一つの捧げ物によって彼(キリスト)は、聖なるものとされつつある人々を永久に完成してしまったからです
 
 
 NIVもほぼ同様の訳し方をしています。
 
because by one sacrifice he has made perfect for ever those who are being made holy.
 
一つの生贄によって彼は、聖なるものとされつつある人々を永遠に完成してしまったからです
 
 
 微妙な時制の違いをわかり易く説明するとこうなります。
 
 神の思いの中では、私たちの救いはすでに完成してしまっています(完了形)。ですから私たちが救われて天国に行くためにやるべきことは、何一つ残されていません(「すべてのことが完了した」)。
 
 私たちにやるべきことがあるとすれば、信仰を保つことです。
 
最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。(へブル314
 
 しかしこの信仰の維持すら、実は神が恵みによって与えてくださいます。
 
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。(エレミヤ3240
 
 上記の「とこしえの契約」とはエレミヤ3131の「新しい契約」のことです。エレミヤ3131はへブル8813で引用されていますし、ルカ2220や第一コリント1125、第二コリント36で言われている「新しい契約」のことです。
 
 つまり「とこしえの契約」とは、こんにち私たちが預かっているエスにある救いのことです。
 
 
●まとめ
 
 へブル書の著者は一度救われたかのように見える人たちが堕落してしまう話をしていますが、その人たちは表面的にはクリスチャンのように見えるものの、実際は本当の救いに預かっていない人たちです(マタイ132430毒麦の例えも参照)。
 
 彼らは罪の生活に戻ることによってイエスの十字架の功績をさげすむ人々であり、「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たち」です。
 
 一方、書簡の受け取り手であるへブル人クリスチャンたちについては、「救いにつながる」「もっと良いこと」が確信されています。
 
 彼らは迫害の中で信仰的に揺れてはいますが、厳しい警告を通して「わたしから去らないようにわたしに対する恐れ」が彼らの心に与えられ、救いの中にとどまることになります。
 
 この聖句は、真のクリスチャンが途中で救いを失うことを教えてはいません。むしろ真のクリスチャンが信仰を奮い立たせるための厳しい励ましです。