「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たち」とは? その2
前回は、へブル6:4~9に二種類の土地、二種類の人々が描かれていることを説明しました。この記事では残りの部分を説明します。
ブルースは、4節の「聖霊」の部分を原典で見ると、単語の前に定冠詞がついていないので、「ご人格としての聖霊が意図されていると論じることは危険である。むしろ聖霊の賜物か、聖霊の働きという意図で書かれていると論じるべきだ」と指摘しています。
「聖霊」の前に定冠詞がついていないことを確認したい方は、以下のサイトへどうぞ。
スクリプチャー4オール/へブル6章pdf:
②5節「やがて来る世の力」
ブルースもパイパーも、未信者でありながら「やがて来る世の力」を味わった人に関してマタイ7:22を事例に挙げています。
マタイ7:22~23
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
またブルースは、使徒8章の魔術師シモンにも触れ、「シモンはピリポから神の言葉を聞いてその素晴らしさに気づき、福音の宣言と受け入れに伴うしるしと大いなる力に驚いていた」と述べ、5節の「やがて来る世の力」を味わうとは、魔術師シモンのようにしるしと不思議を見たり、体験することだとしています。
③6節「堕落」
ブルースは、シモンは「まだ苦い胆汁と不義のきずなの中に」おり、マタイ7章の人々はイエスから「『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 」と言われている。彼らが真のクリスチャンではないように、4節や5節で描写されている人々が「堕落」することは可能だ、としています。
④「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たち」
エペソ5:26でも「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため」とあり、十字架の目的が信者を聖めることであったことが述べられています。
しかし4~5節で描写されている人々は、十字架の意味を知りながらも「堕落」してしまう人々です。
十字架の尊さを知った上で罪の生活を選択するということは、十字架のわざよりも、罪の生活のほうに価値を置くことであり、そのような心の姿勢は「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える」ことなのだ、とパイパーは説明しています。
●救いはすでに完成している
へブル書の著者の神学を知れば、6章の箇所の理解の助けになります。著者は10章で次のように言っています。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(へブル10:14)
「全うする」と訳されているのはテレオーという言葉で、「完璧にする」「完成する」「成し遂げる」という意味です。原典ではこれが完了形で使われています。
「聖なるものとされる人々」(正確には「聖なるものとされつつある人々」)とは私たちクリスチャンのことです(10:10参照)。
つまりイエスは、十字架によって私たちを永遠に完成してくださった、ということです。
ESVという原語直訳型の聖書は10:14を次のように訳しています。
For by a single offering he has perfected for all time those who are being sanctified.
一つの捧げ物によって彼(キリスト)は、聖なるものとされつつある人々を永久に完成してしまったからです。
NIVもほぼ同様の訳し方をしています。
because by one sacrifice he has made perfect for ever those who are being made holy.
一つの生贄によって彼は、聖なるものとされつつある人々を永遠に完成してしまったからです。
微妙な時制の違いをわかり易く説明するとこうなります。
神の思いの中では、私たちの救いはすでに完成してしまっています(完了形)。ですから私たちが救われて天国に行くためにやるべきことは、何一つ残されていません(「すべてのことが完了した」)。
最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。(へブル3:14)
しかしこの信仰の維持すら、実は神が恵みによって与えてくださいます。
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。(エレミヤ32:40)
上記の「とこしえの契約」とはエレミヤ31:31の「新しい契約」のことです。エレミヤ31:31はへブル8:8~13で引用されていますし、ルカ22:20や第一コリント11:25、第二コリント3:6で言われている「新しい契約」のことです。
●まとめ
へブル書の著者は一度救われたかのように見える人たちが堕落してしまう話をしていますが、その人たちは表面的にはクリスチャンのように見えるものの、実際は本当の救いに預かっていない人たちです(マタイ13:24~30の毒麦の例えも参照)。
一方、書簡の受け取り手であるへブル人クリスチャンたちについては、「救いにつながる」「もっと良いこと」が確信されています。
彼らは迫害の中で信仰的に揺れてはいますが、厳しい警告を通して「わたしから去らないようにわたしに対する恐れ」が彼らの心に与えられ、救いの中にとどまることになります。
この聖句は、真のクリスチャンが途中で救いを失うことを教えてはいません。むしろ真のクリスチャンが信仰を奮い立たせるための厳しい励ましです。