「神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たち」とは? その1
ある方々はこの箇所を、クリスチャンは救いを失う可能性がある、という意味で理解しています。この箇所にそういう意味があるのかを考えたいと思います。
参考文献:F.F. Bruce著 The Epistle To The Hebrews
参考説教:ジョン・パイパー/へブル6:4~8
へブル6:4~8
4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
①9節/2つのグループの人々
便宜上、まず9節から説明します。
この聖句の中には、A)「もっと良い」という言葉と、B)「言いますが」の「~が」が使われています。
A)「もっと良い」の部分は、「もっと益のある」とか「もっと優れている」という意味で、別の何かと比較したときに、より優れていることを表す言葉です。
B)「私たちはこのように言いますが」の「~が」の部分は、英語聖書では逆説を表す接続語「though/~ですが、~にもかかわらず」が使われています。
このことから、著者が二つの異なる種類の人たちを比較していることがわかります。わかりやすく言うと、「私(著者)は厳しいことを言ってはいますが、あなたがたにはもっと良い話がありますよ」ということです。
著者は頭の中で二つのグループを描いており、この書簡の受け取り手は、4節から8節までに述べられている人たちとは違う人たちだということです。そのことは7~8節でもわかります。
②7~8節
この箇所にも、A)「神の祝福」に預かる土地と、B)呪われて、焼かれてしまう二種類の土地が描かれています。
しかしギリシャ語原典には「~なら」という条件を表す接続語は使われていません。原典では、英語の関係代名詞に相当する語句を使い、二種類の土地を描写しています。
欽定訳は「which」という関係代名詞を7節と8節で使い、文の構造がもっとも原典に近い状態で訳されています。
For the earth which drinketh in the rain that cometh oft upon it, and bringeth forth herbs meet for them by whom it is dressed, receiveth blessing from God: But that which beareth thorns and briers is rejected, and is nigh unto cursing; whose end is to be burned
訳
というのは、しばしば降ってくる雨を吸い込んで、整える人たちのために植物を生み出す出す土地は神から祝福を受けます。しかしいばらやあざみを生み出す土地は拒絶され、呪いに近づいています。その終わりは、焼かれるということです。
NIVはlandを二回使って表しており、やはり文の構造が原典に近い表現になっています。
Land that drinks in the rain often falling on it and that produces a crop useful to those for whom it is farmed receives the blessing of God. But land that produces thorns and thistles is worthless and is in danger of being cursed. In the end it will be burned.
訳
しばしば降って来る雨を吸い込んで、耕した人々に有益な作物を生産する土地は神の祝福を受けます。しかしいばらやあざみを生産する土地は無価値であり、呪いを受ける危険の中にあります。最後には、その土地は焼かれることになります。
このようにへブル書の著者は、明らかに異なる二種類の人々を描いているのです。
つづく