ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「冷たいか熱いかであってほしい」とは? ラオデキア教会についての考察

 
 厳しい牧師だったら、次の箇所を説教で取り上げて、「信仰がなまぬるいクリスチャンはイエスさまから拒絶されるのです!」などと語るのではないでしょうか。
 
 しかしこの箇所の意味をよくよく調べてみると、信仰的な温度差とは無関係のようです。 
 
わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(黙示録31516 
 
 いろいろな注解書を見ていったところ、もっとも妥当だと思われたのが次の解釈です。(もうひとつの可能な解釈も後述します。)
 
参考文献:
New English Translation Bible (NET)
The Reformed Study Bible
The IVP Bible Background Commentary
The MacArthur Bible Commentary
The New Living Translation Study Bible  
 
スタディーノート55
Laodicea was near two other towns, each of which had a unique water source. To the north was Hierapolis which had a natural hot spring, often used for medicinal purposes. To the east was Colossae which had cold, pure waters. In contrast to these towns, Laodicea had no permanent supply of good water. Efforts to pipe water to the city from nearby springs were successful, but it would arrive lukewarm. The metaphor in the text is not meant to relate spiritual fervor to temperature. This would mean that Laodicea would be commended for being spiritually cold, but it is unlikely that Jesus would commend this. Instead, the metaphor condemns Laodicea for not providing spiritual healing (being hot) or spiritual refreshment (being cold) to those around them. It is a condemnation of their lack of works and lack of witness. 
 
参考文献1:NETバイブル/黙示録3章https://net.bible.org/#!bible/Revelation+3:13 
 
ラオデキアの近くには二つの町がありました。そしてそれぞれの町には特有の水源がありました。ラオデキアの北にあった町はヒエラポリスです。この町には天然の温泉があり、しばしば治療目的で使われていました。東にはコロサイがありました。ここには冷たい真水の川がありました。これらの町とは対照的に、ラオデキアには良質な水源がありませんでした。近隣の水源からパイプで水を引く取り組みは成功しましたが、ラオデキアに届くころには、生ぬるくなってしまうのでした。聖書本文の「冷たい」「熱い」「なまぬるい」という比喩は、霊的な情熱とは無関係です。もしそうだとしたら、ラオデキア教会が霊的に冷たい状態が称賛されることになるからです。イエスがそのような状態を称賛するはずがありません。そうではなく、この比喩的表現の意味するところは、ラオデキア教会が周囲の人々に対して、霊的な癒やし(熱い温泉の効能)も霊的リフレッシュ(冷水がもたらす効能)も提供していなかったことに対する叱責です。教会としての働きや証がなされていなかったことへの叱責なのです。(強調はダビデ
 
 
●解説
 イエスはラオデキア教会に向かって、こう言っているのです。
 
「コロサイの冷水のように冷たくあってほしい。周囲の人々に霊的な励ましや慰めをもたらす存在であってほしい。弱っている人を励まし、苦しみの中にいる人を慰め、乾いた心に潤いをもたらしてほしいのだ。」
 
「あるいはヒエラポリスの温泉のように熱くあってほしい。周囲の人々に霊的な癒やし、すなわち罪の赦しと永遠の滅びからの救いを伝えてほしいのだ。」
 
 
●「吐き出す」の意味
 16節のわたしの口からあなたを吐き出そう」の意味は、不注意な解釈をするなら救いを失うことだと思えるかもしれません。しかし19節に「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりするだから、熱心になって、悔い改めなさい」とあるとおり、イエスはご自分が愛する羊を捨てることはしません(ヨハネ1028、ローマ839。かえって懲らしめて思いを変えさせるのです(へブル1268
 
 ある学者は、「吐き出す」という表現は、なまぬるくてまずい水と同じように、ラオデキア教会の霊的状況がそれほど悪かったことを示すものだと説明しています。
 
 
14節 
アーメンである方」:真実な神の意味。アーメンは誓いを立てるときに使われ、「まことの約束」の意味がある。イザヤ6516では「まことの神によって誓う。
 
忠実で、真実な証人」:ラオデキアの信者たちのありのままを目撃し、そのとおりに証言する存在、という意味。
 
神に造られたものの根源」:英語聖書では「根源」の部分は「Beginning」と訳されている。黙示録18でイエスを「アルファー」と言っているように、「はじめ」というのは神の称号であり、エスが万物の神、万物の支配者であることを指している。
 
 
1516節の別の解釈
 少なくとも25の町を含む商業都市として繁栄し、フリージア地方で最も裕福な都市でもあったが、それは聖書時代だけであった。ラオデキアはコロサイから西に16キロのところにあり、ヒエラポリスからは南に約9キロのことろにあった。
 ヒエラポリスは温泉で有名で、熱い温泉は入浴に適していた。またコロサイの山肌を流れる冷たい真水は、飲料水として好まれた。一方、ラオデキアは、ヒエラポリスからパイプで温泉を引いていたが、9キロ流れてくる間に生ぬるくなっており、裕福な暮らしをしていたラオデキアの住民からは不満がられていた。この生ぬるい温泉水は沈殿物を多量に含んでいたため、ヒエラポリスの水よりも苦かったと地理学者のストラボーは述べている。そのため他所から街を訪れる人々は、ラオデキアの水を口にすると飲めずに吐き出した(16節)という。イエスは、ラオデキア教会は(入浴できるほど)熱くもなく、(飲料水にするほど)冷たくもなく、役に立っていないと言っている(15節)。
 
 
17
「自分は富んでいる」~ラオデキアは銀行の中心地で裕福な都市で、それを誇りとしていた。それは、AD60年に地震で被災したにもかかわらす、ローマからの被災支援を拒否し、独自の経済力で街を立て直したほどである。
 
 ラオデキアはまた、織物産業(特に羊毛)が盛んであった。また医学学校があったり、耳の治療薬の産業もあった。ラオデキアの目薬が高い評価を受けていたことは疑う余地がない。しかしイエスは、霊的な面ではこれらすべての点で、彼らが逆だったと述べている。誇り→みじめ、裕福→乏しく貧しい、目薬→盲目、織物→はだか
 
 
17節のワードスタディーギリシャ語の意味)
みじめ」:①苦労やトラブルが続いている状態 ②苦しんでいる、みじめな
哀れ」:気の毒な、悲惨な
貧しい」:①施しを求めるほど貧しい②富、影響力、地位、名声において極めて乏しい
盲目」:①盲目 ②精神的に盲目
裸の」:①着ていない、裸の ②ぼろぼろの服しか着ていない ③下着だけの
 
 
18節(神に寄り頼むことの勧め
」:これは17節の銀行に対比されており、ラオデキアは物質的には金(おかね)で満ちていたが、霊的には天の宝を買う必要があった。
火で精錬された」:地上の物質は火に耐えられないが、永遠のもの、天のものは火を通されても残る。つまり永遠に残る霊的な豊かさをイエスから受け取れと言われている。
白い衣」:17節の織物産業の対比。黒い羊毛の衣服がラオデキアの特産品だったが、イエスは「白」つまり霊的な純粋さを求めろと言っている。
目薬」:まぎれもなく霊の目が開かれ、自分たちのが見えて悔い改め(19節)ができるようにである。
  
 
20
 NETバイブルは、20節の「彼のところにはいって」という部分に関して、次のように説明しています。
 
スタディーノート
The expression in Greek does not mean entrance into the person, as is popularly taken, but entrance into a room or building toward the person. Some interpreters understand the door here to be the door to the Laodicean church, and thus a collective or corporate image rather than an individual one.
 
「彼のところに入って」というギリシャ語表現は、往々にして人の(心の)中に入ると受け取られていますが、そういうことを意味しているのはなく、室内または建物の中にいるその人に向かって行くことを意味しています。翻訳者の中には「扉」という言葉はラオデキア教会の扉(玄関)だとしている人たちもおり、個人ではなく集団または共同体のイメージとして理解しています。(強調はダビデ
 
 
●解説
キリストがラオデキア教会から締め出されいている状態にある。家に入って食事をともにするということは、親しく緊密な交わりや友情を持つことを指している。
 
 
●まとめ
 1516節については、微妙な違いのある二つの解釈があります。どちらの場合も、詰まる所は、地域の人々のために①教会が機能していない、②教会が役に立っていない、ということで、似たような結論になっています。それぞれの解釈に根拠があるので、断定し切るのは難しいところですが、私は前者のほうが聖書全体の教えに適っているように思います。
 
 1516節の内容も興味深いですが、むしろ17節が重要ではないでしょうか。私たちは知らず知らずのうちに、神以外のものに依存してしまいがちです。主は人間が神から離れて独立自治することを喜ばれません。
 
 エデンの園でサタンは、「神のようになれる」と言ってアダムたちを騙しました(創世記35)。二人も神のようになりたいと思い、蛇の提案を実行したのです(同36)。
 
 人間の自己像を過度に引き上げ神からの独立を促すことは、昔から悪魔が取ってきた手法です。現代においても手を変え品を変え、敵は私たちを同じように騙そうしています。その手に乗らないよう気をつけましょう。