トロント・リバイバルに関する警告文 その3
「終わりの時のリバイバル」
この声明は、2000年8月11日にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の総会により採択されたものです。
(中略)
3.言葉の賜物を用いて個人的な指導を授けたり、強要する行為
御霊の促しによる個人的な勧めが、常識に反して神から来るケースは極めて稀です。間違う危険を犯して誰かに個人預言をすれば、それはすぐにでもキリストの体における弊害となります。未知なる働きのために、パウロとバルナバは正当な方法で聖霊による聖別を受けましたが(使徒13:2)、それでも二人は、その特殊な任務のために、御霊の導きを求めなければなりませんでした。二人を召し出す言葉は、礼拝と断食をしていた信者たちの聞く中で語られたもので、パウロとバルナバを含め、その場にいた全員が耳にしました。それゆえ、真に御霊が語ったことをみなが確信できたのです。もしいわゆる「預言の」言葉が神から来ているのなら、御霊の働きのために聖別された本人の心に、聖霊ご自身が確信を与えてくださるでしょう。
4.聖書個所の直接的な意味に反した解釈による曲解やこじつけ
以下に挙げる教えには、真理の要素が含まれてはいるものの、実際に教えられる内容は惑わしや非聖書的な要素が含まれているため、慎重に避けるべきです。いくつかの実例では、一語またはワンフレーズだけを聖書から抜粋しています。それゆえ聖書的であるかのように響きますが、適用の段階では聖書の真理ではなく、人間的に創り出された内容になっています。それらの多くは、聖書の真理から逸脱した過去にあった教えのリメークであり、今後も名前を変えて、新しい啓示として再浮上してくることが疑われます。
キングダム・ナウ神学/支配神学
この教えは、人間の僅かな手助けがあれば、地上に神の国をもたらすことができるというもので、社会にインパクトをもたらすアプローチを提唱する人々にとって、好奇心がそそられるものです。この常軌を逸した神学は、キリストの差し迫った再臨を嘲笑する代わりに(第二ペテロ3:3~4)、サタンとその手下から、教会が世界を取り戻して支配しない限り、キリストは再臨しないと教えます。可能な手段を尽くして、政治、宗教、教育、経済、その他の分野の支配権を握ることにより、クリスチャンたちは世界をキリストの再臨と統治にふさわしい場所にすることができると考えられています(注6)。この非聖書的な勝利主義は、関連性を持つ歪んだ教えを他にも生み出しています。
注6:この偽の教えは、「The Kingdom of God as Described in Holy Scripture」というアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のポジションン・ペーパーで詳細に取り扱っています。(Springfield, MO: Gospel Publishing House, 1990).
顕在化した神の子どもたち/ヨエルの軍隊
これらは、キングダム・ナウ神学を信奉する人たちを示す名称の一部です。彼らは、敵対勢力を打ち負かすことを目指して活発に活動している人たちです。キリストの差し迫った再臨という聖書的理解を持つクリスチャンは、「油注がれた者たち」(時には自分たちのことを指す)に賛同しない臆病者だと、彼らは主張しています。旧約の書であるヨエル書に、終末に関する多くの内容が含まれているのは確かですが、ヨエル2章の強大な軍隊は、イスラエルを裁く手段として使われた恐ろしいイナゴのことです。イスラエルが悔い改めた後、イナゴの大軍は主の手によって滅ぼされます。裁きの道具が滅ぼされた後でなければ、約束されたリバイバルはやって来ません。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあるとおりです(ヨエル2:28)。イナゴであるヨエルの軍隊のことを、キリストの千年間の支配に向けて地球を備える軍隊、社会や非協力的な教会と戦って勝利する軍隊、と解釈することは完全に間違っています。
聖書中の出来事や歴史の霊的解釈
啓発したり霊的成長を促す目的で、聖書中の歴史的事実と、聖書真理のこんにち的適用との間に類似点を見出すことにはまったく問題はありません。しかし聖書中の出来事を無理やり終末の出来事にこじつけた場合、思慮深いクリスチャンは警戒すべきです。使徒の働き17:10~11のベレヤ人たちは、「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」ことを称賛されました。新しい真理の啓示として語られる教えは、慎重に吟味すべきです。ペンテコステ派の人たちは、油注がれた力強い説教スタイルに馴染んでいます。しかし教師が権威と自信を持って語っているからというだけでは、その教えが正しいことにはなりません。教えは常に聖書と一致していなければならないからです。個人的なカリスマ性が、聖書の権威に取って代わることはありません。
繁栄の福音
繁栄の福音が語られることにより、正当な番組に対しても、そうでない番組に対しても献金が増加しました。神は忠実な者を間違いなく祝福してくださいますが、祝福が常に経済収入であるとは限りません。撒き、刈り取る、という霊的な原則はありますが、贅沢なライフスタイルを維持するために、貧しい人々からお金を巻き上げるというのは非良心的です。かの日に私たちは、一つひとつの根拠のない言葉について、弁明しなければなりません(マタイ12:36)。怪しい方法で集めたお金についても弁明することになるのです。聖書的な教えは、世界のすべての隣人、すべての文化、すべての社会や国家に適用できる内容であるべきです(注7)。
注7:繁栄の福音と肯定的な告白に伴う諸問題に関する研究については、「The Believer and Positive Confession」というアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のポジションン・ペーパーを参照してください。(Springfield, MO: Gospel Publishing House, 1980).(Springfield, MO: Gospel Publishing House, 1980).
出産の祈り
適切の域を超えた教えの、もうひとつの事例として、クリスチャンは神の国に新しい信者を産み出さなければならない、というものがあります。パウロはガラテヤ人に手紙を書き、その中で例えを適切に用いています。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:19)。しかしこの例えが、母親の出産行程をあからさまに想像させるような表現で語られ、信者が実際に横になって、母親が子供を産むときのような姿勢でとりなしの祈りをすべきだと勧める場合、それは真理の誤用というものです。
代々の呪い
確かに聖書は、父親の罪が三代目、四代目の子供たちにまで及ぶと教えています(出エジプト記20:5、民数記14:18、申命記5:9)。その3箇所のうちの2箇所では、罪の波及の言及は、神を憎む者に向けられています。また私たちは、遺伝や環境という要素がいくぶんか子孫に受け継がれることも知っています。しかし旧約聖書は、キリストの十字架における功績の光に照らして読むべきです。新約聖書では、罪の波及に関して一切語られていません。私たちを取り囲む被造物は罪の影響により堕落し、万物の回復を待ち望んでうめき苦しんでいます(ローマ8:22)。しかしこんにちの信者は、個人的な呪いのもとに生きていません。代々の呪いの過度な強調は、信者を自由にするよりも、むしろ束縛することになります。キリストの体の外部では、代々の呪いの根拠が見られるかもしれませんが、信者の場合は救いにより呪いは断ち切られています。ただし生まれながらの特徴や、いくつかの行動パターンについては、聖霊の助けによって取り扱わなければなりません。
つづく
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