ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

トロント・リバイバルに関する警告文 その2

終わりの時のリバイバル
 
 この声明は、2000811日にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の総会により採択されたものです。

 その1では按手と預言によって、信者の霊的賜物や将来の召しを言い当てることの危険性に対する警告を掲載しました。この記事では、こんにちカリスマ・ペンテコステ派に流行している現代の使徒預言者による教会統治の誤りについてです。



2.現代の使徒預言者職が教会の働きの全分野を統括すべき、という問題のある教え
 
 神の国においては、独立心が強く自己価値を過大評価する人々にとって、組織や管理構造を人間的な発想に基づいて考案し、公言したくなる誘惑は大きいものです。そういう人たちは、指導者として大きな影響力を及ぼした使徒預言者がいたことを聖書から学び、第一コリント12:28(注3)やエペソ2:20、同4:11を曲解することによって、自分自身や自分と思いを一つにする人たち預言者であり使徒であると公言し始めます。その新しい秩序、あるいは新しい組織は、従来のものよりも聖書的だと主張しますが、従来の管理構造を避けるために立ち上げた(新しい)構造は、すぐにでも独裁的で厚かましく、かつ肉的になる恐れをはらんでいるのです使徒預言者による統括を提唱する人たちは、エペソ4章の箇所を、あまりにも早く読み終えてしまい、(既存の)職務や教役者が、すべて神によって召されていることを見逃しています。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」(エペソ41115、注4)。
 
3:「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(第一コリント1228
 
4:教会における教役者の働きの聖書的模範に関する詳細は、「The Ministry of the Body of Christ」というアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のポジションン・ペーパーを参照してください。(Springfield, MO: Gospel Publishing House, 1974).

 エペソ2:20でパウロは、ユダヤ人と異邦人が一体となって教会を構成するに至った歴史的事実を述べているのです。20節にあるアオリスト過去形の分詞は、「使徒たちと預言者たちという土台の上に建て上げられてしまっており、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石なのです」と、過去の出来事として訳すのがもっとも適切しています。またエペソ3:5では、使徒預言者が、霊感によって書かれた聖書を記録する役割を果たしたことが、過去の出来事として述べられています。そして牧会書簡によれば、地域教会の指導権は長老や執事らに任されています。牧会書簡はパウロの最後の書簡です。(使徒預言者の)働きの機能は今も存続していますが、それらの最後の書簡の中には、使徒預言者の職務が存続していることを示す記述はまったくありません。
 
 新約の預言者が、牧師や伝道者の場合ように公に認められた職務を持つということは、いっさい記されていません。新約の預言者たちは、みからだの啓発と戒めのために、預言的に語りました。彼らが御霊の霊感によって預言した場合、その働きは、はっきりと認められるものでした。実に新約の預言者は、職務に就かない形で召し出されることもあったのです。自称預言者がとつぜん地域教会に現れた場合、(周囲から)熟知されるまでは、間違いなく疑われたことでしょう。そのような弊害を避けるため、すべての預言の言葉は、みからだによって試されるべきだとパウロは教えました(第一コリント14:29)。パウロが教え、模範を示した謙遜な態度は、すべての霊的指導者の第一の品格的特徴となるべきです。私たちは、使徒的スタイルまた、預言者的スタイルの働きが教会内に存在すべきであり、存在していると認識していますが、誰かが使徒預言者の職務に就くという認識はしておりません。

羊飼い運動/The Shepherding Movement
 これは今では以前ほど使われなくなった言葉ですが、上記で述べた使徒預言者の曲解と密接に関連しています。羊飼い運動は、仲間内で互いに使徒預言者に任命した人を、神によって任命され、適切な方法で選ばれた既存の指導者と、無作為かつ誤った方法で入れ替えてしまう行為で、弊害を招く恐れがあります。過去においては、羊飼い運動の教えに基づいて人為的なピラミッド型報告義務システムが実施され、ひとり一人が自分の羊飼いに対して報告義務を課されていました(注5)。そして羊飼いは、また別の羊飼いに対して報告義務が課され、その羊飼いから指導を受け、管理され、支配されていました。パウロが若きテモテをメンターとして監督していた実例は現代においても良き模範ですが、すべての信者に対して組織的に自分の羊飼いを持つよう要求すべき聖書的根拠は存在しません。地域教会の羊飼いである牧師は、伴侶との協力のうちに、もっとも個人的な問題をも取り扱うことができます。牧師のためには、神に祝福された行程で選出された教区長がおり、必要に応じて支援を要請することができます。しかし無作為かつ義務的な要素を持たせたやり方で、誰かに個人的な羊飼いを持つよう要求することは聖書的ではありません。キリストの体の建て上げと啓発を願いつつ御霊の導きに従う同僚らによって選ばれ、神からの任命を受けた指導者は、必要な成熟度と安定性、また御霊の賜物を兼ね備えているものです。
 
5:「The Discipleship and Submission Movement」というアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のポジションン・ペーパーを参照してください。(Springfield, MO: Gospel Publishing House, 1976).

つづく

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