番外編 「暴力に関する3つの区分」
聖書を調べると、暴力の取り扱い方が個人レベル、司法レベル、国家レベルの3つの領域において、それぞれ異なっていることがわかります。
たとえば、マタイ5:39には「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」とあります。
しかし同じイエスが、ヨハネ18:23では、「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか」と言い、「証拠の提示」を求めて「不服の申し立て」をしています。
もし個人生活と法律問題の区別をつけないなら、後者の発言は矛盾していることになります。たとえ叩かれても、「もっと叩きなさい」と言って、反対側の頬を差し出すべきです。
しかしイエスはそうしていません。
これは、前者の教えが個人的な生活の領域で復讐を禁ずる教えである一方、後者は法的な問題である、という区別がなされているからではないでしょうか。聖書学者たちはそう解釈しています。
しかしすぐあとの53節では、「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」と言って、復讐を神に任せるなら神が復讐してくださると教えています。
ローマ12:19に「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」とあるとおりです。
残念ながら、ネット上に見られる、日本人牧師らが書いた文章の多くは、この「3つの領域」の区別ができていないようです。
しかしローマ12:2に「神のみこころ」すなわち「何が良いこと」なのかを知るには、心の一新が必要だと書かれているとおり(「心」という言葉は、知性を含む領域を指している言葉なので、「思いの一新」と訳すべき)、私たち日本人クリスチャンが、暴力に関する「神のみこころ」を知るには、「思いの一新」が必要なのではないかと思います。
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