ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

フランクリン・グラハムについて その2

 
 その1のインタビューの続きです。
 
引用サイト:CNNによるフランクリン・グラハムへのインタビュー
 
リポーター
先生は、私たちが苦々しい思いを持つ必要はないと言われますが、先生に次の質問をお尋ねします。先生のお父様であるビリー・グラハム先生が、大統領から本日の礼拝に参加してほしいと依頼されて、お父様も大聖堂に来られるということを指摘したいのです。私たちが苦々しい思いを持つ必要はないとおっしゃいますが、それがこの出来事に対する人間らしい反応と言えるでしょうか。
 
グラハム:言えます。
 
リポーター
国民は報復を望んでいます。国民の思いは、この事件を起こした者たちを探し出して捕らえることです。
 
グラハム
私は、私たちは自衛すべきだと思っています。この事件をおこした者たちから自分を守る必要があります。このようなことが再び起きないためにです。ですから私は、自己防衛することを主張し、この事件を起こした国々や犯人たちの責任を追及することを主張します。
 
しかしそれと同時に、アラブ世界全体を、中東出身の人全員を敵に回すような苦々しい思いを持ってほしくないということです。彼らは素晴らしい人たちだからです。彼らは中東にいる素晴らしいイスラム教徒であり、素晴らしいキリスト教徒であって、この事件に決して加担したり、支持したりする人たちではないからです。
 
しかしジュディ、私たちが同時に知っておくべきことは、すべての中東の国には、イスラ教過激派の集団が存在するということです。彼らはこの国を破壊しようと心を決めています。なぜかというと、私たちがイエス・キリストを信じており、イスラエルを支援しているからです。私たちはこの点を取り扱わなければなりません。あらゆる国において同じです。
   
リポーター
グラハム先生、大聖堂の正面で私と一緒に座っていると(雨で?)少し濡れてしまいますが、大勢のみなさんが集っている理由を思えば、大したことではありません。先生がおっしゃっていたとおり、この国は自己防衛しなければなりません。何らかの軍事行為が取られれば、その責任を持つであろう人物を私たちはたったいま見ました。もちろんその人物とは、ラムズフェルド国防長官です。
 
グラハム先生に率直なご意見をお伺いしたのですが、もう片方の頬も向けなさいという聖書箇所があります。その箇所と、いま多くの国民が持っている感情をどのように結びつければいいのでしょうか。
 
グラハム
その箇所が国家について述べているとは思いません。個人的に誰かが立ち向かってきたときには、私たちは身を委ねるべきです。私たちがもし平手打ちされた場合には、もう片方の頬を向けるべきです。誰かが上着を要求するなら、それを与えるということです。
 
しかしそれは、国家の自己防衛に関してではありません。聖書を見ると、旧約聖書の中のダビデ王、彼は戦いの人でした。彼は神の敵と戦いました。彼はイスラエルの敵と戦いました。そして神は彼を祝福し、彼に権力と力を与えました。ダビデはいつも、戦いの勝利を求めて祈っていました。
 
ですから国家として、私たちには自分自身や子供たちを守る権利があるのです。私の息子は陸軍士官学校にいます。彼は来年、入隊します。ですからいま話している事柄については、ある意味、自分の家庭に求められていることとして考えています。
 
しかし私たちは大統領を支持しなければなりません。それが私たちの生きる道です。そしてそれが攻撃されています。私は大統領を支持します。私は選ばれた指導者たちを支持します。私たちに必要なのは・・・(空白)今日は祈りの日です。私たちはいま、国家として団結し、祈る必要があります。そして全能なる神の御顔を慕い求める必要があるのです。私たちは神に罪を告白する必要があります。国家として赦しを請い、これから私たちはどうすればいいのか、特に大統領はどうすべきなのか、神の知恵を求める必要があります。
 
                        (午前のインタビューは終わり)
 
●検証1
参考文献
1)Politics—According to the Bible by Wayne Grudem
2)The MacArthur Bible Commentary   
 
リポーター
もう片方の頬も向けなさいという聖書箇所があります。その箇所と、いま多くの国民が持っている感情をどのように結びつければいいのでしょうか。
 
グラハム
その箇所が国家について述べているとは思いません。個人的に誰かが立ち向かってきたときには、私たちは身を委ねるべきです。私たちがもし平手打ちされた場合には、もう片方の頬を向けるべきです。誰かが上着を要求するなら、それを与えるということです。
 
 
 上記のやり取りは正しく聖書を解釈しているでしょうか。
 
マタイ539
あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
 

 参考文献1の神学者ウエイン・グルーデムは、著書「聖書に基づいた政治」P82で、ローマ1315と比較して次のように述べています。
 
Does this prohibit even government from executing punishment on wrongdoers? Not if it is rightly understood. This “turn the other cheek” verse should be understood within its proper context. Here Jesus is not talking about the responsibilities of government, but is giving principles for individual personal conduct.
 
この箇所は、政府が「悪を行う人」に罰を与えることを禁じているでしょうか。もし正しく理解しないなら、そのとおりです。この「左の頬も向けなさい」という聖句は、前後の脈絡の中で適切に理解されなければなりません。この箇所でエスは、政府の責任について述べているのではありません。個人の行いの原則について述べているのです
 
 参考文献2のジョン・マッカーサーは次のように、述べています。
 
38節と同様、この箇所は個人的な人間関係の問題だけを取り扱っています。犯罪による攻撃のことではありませんし、軍事行動でもありません。イエスは、個人の尊厳を侮辱されても報復をしてはならないという原則を適用しているのです。
 
 また、あるクリスチャンサイトは次のように説明しています。
 
To "turn the other cheek," does not imply pacifism, nor does it mean we place ourselves or others in mortal danger. Like the principle of the eye for an eye and tooth for a tooth in Matthew 5:38, turning the other cheek refers to personal retaliation, not criminal offenses or acts of military aggression.

「もう片方の頬も向けなさい」というのは、平和主義を意味するものではありません。また自分や他者を命の危険にさらすことでもありません。マタイ538の目には目、歯には歯の原則と同じように、もう片方の頬を向けるというのも、個人的な報復について述べているもので、刑事上の犯罪や軍事行動に関する言及ではありません
 

以下の「ヤフー知恵袋」でも、牧師さんが同様のことをわかり易く説明しています。
 
 
 グラハムの解釈は、個人の問題という点で正しく解釈されています。しかし知恵袋の牧師さんが正当防衛も認めれていると述べているとおり、聖書は犯罪に対する個人的な自衛は認めています。
 

もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない。もし、日が上っていれば、血の罪は打った者にある。
 
 この聖句によれば、意図的に犯罪者を殺すことは禁じられていますが、打つことによって自衛することは認められています。
 

 イエスは次のように述べています。
 
ルカ2236
しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい
 

 聖書はクリスチャンが犯罪から身を守ることを認めており、犯罪に対する無抵抗を教えてはいません。
 
 
●検証2
 
グラハム
しかしそれは、国家の自己防衛に関してではありません。聖書を見ると、旧約聖書の中のダビデ王、彼は戦いの人でした。彼は神の敵と戦いました。彼はイスラエルの敵と戦いました。・・・
 

 国家の自己防衛についてはその1でも取り扱いましたが、聖書はいろいろな箇所で国家の自己防衛を認めいますので、グラハムの発言の一例として第一サムエル記17章を見たいと思います。
 

第一サムエル記171
ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。
 
 
 この戦いは、いわゆる「聖戦」ではありません。聖戦では、神の直接的な命令によってイスラエルのほうから戦いを仕掛けることもありました。こんにちは当時のイスラエルのような神権政治は行なわれていませんから、聖戦をこんにちの国家に当てはめることはできません。
 
 しかしこの箇所の場合、敵国のほうから軍事的にイスラエルを攻めてきた状況にあり、いわゆる聖戦とは違います。
 
 この箇所には、戦いに関する神の命令はありません。しかしダビデは信仰により石投げを使ってゴリアテを殺し、イスラエル軍は勝利しました。
 
17:50 
こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。
 
 
 神はこのダビデの戦いのあと、彼がゴリアテを殺した行為についてまったく責めていません。

  国家の主権者が悪を行う者を罰することについては、ペテロも認めています。


第一ペテロ2:1314 
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。


このように聖書は、国家的軍事行為による防衛を認めています。
 
 
●まとめ
 
1)聖書は個人的な人間関係における報復を禁じています
 
2)しかしクリスチャンの自衛は認められています
 
3)国家の自己防衛も認められてます
 
 
つづく
 
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