戦争と神の性質
聖書にある聖絶(戦争)の箇所を読むとき、クリスチャンの多くは残酷だと感じるはずです。私たちが人間である以上、犠牲者となっている幼子を含む多くの人々に意識を向け、自分と同じ人間を無残に殺す旧約の神はなんと厳しいことかと感じるのは当然のことだと思います。
しかし私たちは、神のそのような「聖」という性質や「義」という性質を理解し、受け入れなければなりません。こんにち、聖絶(戦争)というものは存在しませんが、前記事で述べたとおり、神の性質自体は永遠に変わらないからです。
●聖絶
「聖絶」と訳されたヘブル語について、ウィキペディアから抜粋してみました。
聖絶は必ずしも異民族にだけ行われたわけではなく、ヤハウェ以外の神を礼拝したような場合にはイスラエル民族そのものにも向けられたし(出22:20、申7:26、ヨシュア6:18)、さらに、イスラエルの民自身が神によって聖絶されることが預言されたこともある(エレミヤ25:9)。
(引用終わり)
出エジプト記22:20
ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。
申命記7:26
忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。
ヨシュア記6:18
ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。
同7:1
こんにちこの聖絶はなくなりました。しかし神のご性質が変わったわけではありません。
使徒5:3~5
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
●神は義
旧約聖書で「神は義である」と表現する場合、ヘブル語のツァダクという言葉が使われます。
ツァダクの意味は”to have a just cause”「公正な理由を持つ」ですから、「神は義である」をわかり易く表現すると、「神は公正な理由を持っている」ということになります。
神が戦いを命じたり、承認するとき、神は公正な理由を持っている、ということです。
エステル記には、直接、神は登場しませんが、神の「義」「公正」という性質が表れていると思います。
ハマンは、ユダヤ民族を滅ぼそうとしましたが(エステル記3:6)、神が背後で働き、アハシュエロス王の心を動かしたのは明らかです(同4:16)。ハマンは王によって処刑され(7:10)、王はユダヤ人を迫害する者たちを全員処刑しました。
エステル記8:7~11
そのとき、王の書記官が召集された。それは第三の月、すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてすべてモルデカイが命じたとおりに、ユダヤ人と、太守や、総督たち、およびホドからクシュまで百二十七州の首長たちとに詔書が書き送られた。各州にはその文字で、各民族にはそのことばで、ユダヤ人にはその文字とことばで書き送られた。
モルデカイはアハシュエロス王の名で書き、王の指輪でそれに印を押し、その手紙を、速く走る御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。
その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。
「支配者」である王が市民の命を守るため、「悪を行う人」たちを「殺害し、滅ぼす」ことを命じました。このような状況下での戦いは、聖書的な戦いであることがわかります(ローマ13:1~4)。
神は聖であり、公正なお方です。悪を許さず、厳しく罰します。私たちは神のその性質を、受け入れなければなりません。
戦争による犠牲者の数が多いからという理由だけで、その戦争が悪だと決めつけることはできません。
その戦争の背後にある理由を聖書と照らし合わせ、神の価値基準で評価する必要があります。
主であるわたしは変わることがない。(マラキ3:6)
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