ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

戦争と神の性質


 聖書にある聖絶(戦争)の箇所を読むとき、クリスチャンの多くは残酷だと感じるはずです。私たちが人間である以上、犠牲者となっている幼子を含む多くの人々に意識を向け、自分と同じ人間を無残に殺す旧約の神はなんと厳しいことかと感じるのは当然のことだと思います。
 
 しかし私たちは、神のそのような「聖」という性質や「義」という性質を理解し、受け入れなければなりません。こんにち、聖絶(戦争)というものは存在しませんが、前記事で述べたとおり、神の性質自体は永遠に変わらないからです。
 
 
●聖絶
 
 「聖絶」と訳されたヘブル語について、ウィキペディアから抜粋してみました。
 
 
聖絶(せいぜつ)とは、聖書信仰の立場によって訳された『新改訳聖書』において造られたヘブライ語ヘーレム(חרםḥērem)の訳語(造語)である。
 
ヘーレムの語根は「別にしておく」とか「俗用に供することを禁じる」ことを意味しており、この語はヘブライ語聖書旧約聖書)で神への奉納・奉献・聖別を表すためにも用いられている
 
聖絶は必ずしも異民族にだけ行われたわけではなく、ヤハウェ以外の神を礼拝したような場合にはイスラエル民族そのものにも向けられたし(22:20、申7:26ヨシュア618)、さらに、イスラエルの民自身が神によって聖絶されることが預言されたこともある(エレミヤ25:9)
                                (引用終わり)
 
 
ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。
 
申命記726
忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。
 
ヨシュア618
ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。
 
71
しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。
 
 
 こんにちこの聖絶はなくなりました。しかし神のご性質が変わったわけではありません。
 
使徒535
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
 
 
●神は義
 
 旧約聖書で「神は義である」と表現する場合、ヘブル語のツァダクという言葉が使われます。

 
 ツァダクの意味はto have a just cause「公正な理由を持つ」ですから、「神は義である」をわかり易く表現すると、「神は公正な理由を持っている」ということになります。
 
 神が戦いを命じたり、承認するとき、神は公正な理由を持っている、ということです

 エステル記には、直接、神は登場しませんが、神の「義」「公正」という性質が表れていると思います。
 
 ハマンは、ユダヤ民族を滅ぼそうとしましたが(エステル記36)、神が背後で働き、アハシュエロス王の心を動かしたのは明らかです(同416)。ハマンは王によって処刑され(710)、王はユダヤ人を迫害する者たちを全員処刑しました。
 
エステル記8711
アハシュエロス王は、王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った。「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、今、私はハマンの家をエステルに与え、彼は柱にかけられたではないか。
あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王ので書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王ので書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。
そのとき、王の書記官が召集された。それは第三の月、すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてすべてモルデカイが命じたとおりに、ユダヤ人と、太守や、総督たち、およびホドからクシュまで百二十七州の首長たちとに詔書が書き送られた。各州にはその文字で、各民族にはそのことばで、ユダヤ人にはその文字とことばで書き送られた。
モルデカイはアハシュエロス王ので書き、王の指輪でそれに印を押し、その手紙を、速く走る御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。
その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。
 
 
 「支配者」である王が市民の命を守るため、「悪を行う人」たちを「殺害し、滅ぼす」ことを命じました。このような状況下での戦いは、聖書的な戦いであることがわかります(ローマ13:1~4)。
 
 神は聖であり、公正なお方です。悪を許さず、厳しく罰します。私たちは神のその性質を、受け入れなければなりません。

 戦争による犠牲者の数が多いからという理由だけで、その戦争が悪だと決めつけることはできません。

 その戦争の背後にある理由を聖書と照らし合わせ、神の価値基準で評価する必要があります。
  
 
主であるわたしは変わることがないマラキ36
 
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じですへブル138
 
 
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