ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

グラハムのその他の戦争発言


 以下に、2006年のグラハムの発言を引用しました。
 
来日した2006年、クリスチャン新聞のインタビューに「私はいかなる戦争も支持しません。真実なイエス・キリストに仕える人はだれも戦争を支持しません。」「しかし、国には防衛する権利があります。それは戦争とは別です。」としている。
                                (引用終わり)
引用サイト:
 
 上記の発言は聖書の教えと一致しています。もしクリスチャン新聞が、この発言が間違っているという論調で記事を書いたのであれば、クリスチャン新聞のほうが聖書を知らない、ということになります。
 
 
●正戦論
 
 西欧の文化には、中世の時代から「正戦論」という概念があります。トマス・アキナスという神学者が、その土台を築きました。アメリカでも「正戦論」に基づいて、戦争の是非が判断されています。
 
 グラハムも「正戦論」を参考にしている可能性があります。
 
 
参考文献:「聖書に基づく政治」(P389~P390)
 
戦争が「正当な戦争」かどうかを、どう判断するのか?
 
 当然のことながら、単に征服して略奪するだけの間違った戦争は存在する。では、戦争の是非をどうやって判断すればよいのだろう。何世紀にもわたる戦争倫理の議論をとおして、キリスト教の学者たちの知恵を中心に、「正戦論」と呼ばれる概念が発達してきた。「正戦論」は、戦争が倫理的に正当とされる条件について説明している。また、戦争の開始を制約する倫理的条件についても具体的に論じている。
 
 私としては、「正戦論」は、国家が自らを敵から防衛するための必要条件について、概して聖書の教えと一致しているように思える。以下は、近年において正当な戦争の基準とされているものの要約である。各基準を支持する聖書箇所とともに掲載する。私が思うに、これらの基準は、以下のような聖書の教えと概して一致している。
 
 正当な戦争の倫理は時代とともに、特定の状況において戦争を始めることが正当であるかどうかを決定する共通の価値基準として発展してきた。その基準は以下のとおりである。
 
1)正当な理由(たとえば国家の防衛という、戦争を始めることが倫理的に正しいと認められる理由があること。黙示録1911)。
 
見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる
 
2)適格な権威(国家内の逸脱者の集団によってではなく、適格と認められる権威によって戦争が宣言されていること。ローマ131)。
 
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです
 
3)敵と比較して公正であること(敵の行いが倫理的に間違っていることが明確であり、自国が戦争を開始する動機や行いが、敵と比べて倫理的に正しいこと。ローマ133
 
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます
 
4)正当な意図(戦争を開始する目的が、単に他国の略奪や破壊ではなく、公正さや正義を守ることであること。箴言212
 
人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる
 
5)最終手段(争いを解決する理に適った手段が戦争以外にないこと。マタイ59、ローマ1218
 
平和をつくる者幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい
 
6)勝算があること(戦争に勝利できることが合理的に期待できること。ルカ1431
 
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか
 
7)戦争がもたらす善と損失の割合(勝利に伴う善や益のほうが、戦争による不可避の危害や損失を大きく上回っていること。ローマ1221134
 
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい
 
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います
 
8)正しい精神(戦いを喜ぶのではなく、もたらされる危害を厭い、悲しむ心があること。詩篇6830
 
葦の中の獣、それに、国々の民の子牛とともにいる雄牛の群れを、叱ってください。銀の品々を踏み汚す戦いを喜ぶ、国々の民を散らしてください。
 
 上記の基準に加えて、正戦論の賛同者は、正当な戦争の戦い方についても倫理的な制約を設けてきた。それは次のとおりである。
 
1)軍事力使用の割合(勝利に必要な破壊を超えるべきではない。申命記201012
 
町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に朊して働かなければならない
 
2)戦闘員と非戦闘員の区別(戦争を成功裏に進める上で、可能な限り非戦闘員への被害を避けるため、適切な対応をとる。申命記2013141920
 
あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。
 
長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい
 
3)悪質な手段の回避(公正さと同情心をもって捕虜を取り扱う。また味方の兵士たちが捕虜として正当に扱われるようにする。詩篇3414
 
4)善なる信仰(平和の回復および戦後、攻撃国と調和を保つ真の願いがあること。マタイ54344、ローマ1218
 
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい

                           (引用終わり)

つづく
 
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