ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

政府は悪を罰し善を奨励すべきである その2


 ウエイン・グルーデムの著書からの抜粋翻訳です。この記事では、新約聖書から政府の役割について見ていきます。
 
引用元:「聖書に基づく政治」 ウエイン・グルーデム(P79~P80)
 
 
1.新約聖書に見られる同様の教え:ローマ1317
 
 創世記9章は悪を罰する権威について記していたが、新約聖書はさらにそれを補強する記述をしている。その中でもっとも長い箇所が、ローマ1317である。
 
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさいローマ1317
 
 
 この箇所は政府に関して、次に挙げる事項を教えている。
 
政治的な力を持つ権威者は、神によって任命されている(12節)。ヨハネ1911におけるピラトに対するイエスの言葉も、この見解を支持している。
 
もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(訳注)
 

訳注:日本語聖書の訳語が紛らわしいためか、ヨハネ1911のイエスの言葉がまったく逆の解釈をされている場合があるので解説します
 

 たとえば、以下のような解釈です。
 
ピラトの権威はローマ皇帝から与えられているのですから、人間的に見たら、相当な権威であるわけです。しかし、イエスさまが言われているのは、神から与えられている権威のことです。真の権威をもっておられる父なる神から与えられている権威でなければ、イエスさまに対して何の権威もないのです。
 
 
 
ヨハネ1911の解釈
 
 まず結論から言ってしまいますが、イエスはピラトの権威を否定しているのではなく、神からのものだと肯定しています。
 
NIV(新国際訳)
You would have no power over me if it were not given to you from above.
 
NASB(新米標準訳)
You would have no authority over Me, unless it had been given you from above;
 
NKJV(新欽定訳) 
You could have no power at all against Me unless it had been given you from above.
 
KJV(欽定訳) 
Thou couldest have no power [at all] against me, except it were given thee from above:
 
 どの英語聖書も仮定法の否定形で訳しています。つまりイエスは、ピラトには神からの権威がある、と言っているのです。訳はどれもほぼ同じです。
 
上から与えられていなかったなら、あなたにはわたしに対するなんの権威もなかったでしょうに(でも、あなたにはそれがあります)
 
 
 この箇所について聖書注解者たちは、次ようにコメントしています。
 
The New Living Translation Study Bible (P1810)

「ピラトにはイエスを十字架につける権威があったが、それは神がピラトに一時的な権威を与えていたからに他ならない。それはイエスが十字架につくためであった(ヨハネ1018参照)。」
 

D.A.カーソン (The Gospel According To John, P600)

「イエスは、ピラトの権威の背後に神の御手があることを認識していた。」
 

ジョン・マッカーサー(The MacArthur Bible Commentary,P1419)

「イエスの言葉が示すことは、最悪の存在でさえも神の主権から逃れることはできない、ということである。(中略)イエスは敵対勢力や悪に直面するとき、往々にしてその中に父なる神の主権が働いていることに慰めを見出していた。」
 

The Reformation Study Bible (P1550)

「イエスは、訴える者たちの邪悪さやピラトの臆病さすらも、神の主権的な計画の中に包含されていることを認識していた。使徒223のペテロの言葉も参照のこと。」
 
使徒223
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を・・・
 
 
 つまりピラトに与えられた神の権威を通して、父なる神が意図的にイエスを十字架につけたということです。逆にピラトの権威が神から来ていたことを否定するなら、イエスの十字架は神によるものではなく、人によるものとすることになります。
 
 
●為政者に対するパウロの信仰
 
 もう一つ注意しなければならないことは、ローマ1317パウロが「権威」「支配者」と呼んでいる直接の存在は、ローマ皇帝ネロだったということです。後になってクリスチャンたちを迫害したローマ皇帝を指して、パウロはこの箇所を執筆しました。
 

The IVP Bible Background Commentary (P441)

「このときの皇帝はネロであったが、まだクリスチャンたちへの迫害を始めてはいなかった。ネロは(アドバイザーで政治家また哲学者であった)セネカや、(警護を担当していた騎士)ブルッスの慈悲深さの影響下にあったからだ。(中略)ネロはギリシャでは常に人気があったが、パウロはそのギリシャ(コリント)から執筆していたのである。」
 

 ですから間違いの実例として上記に引用したピラトの権威に関する解釈は、二重の意味で間違っています。ローマ皇帝自身が神によって立てられた「権威」であり、ピラトはその神の「権威」によって任命されたのですから、ピラトの権威は人ではなく神による権威だったということです。
 
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」というパウロの言葉は、字義通りに受け取らなければなりません。 
 
 詰まる所、為政者が聖人君子でなくても、また私たちにとって納得のいく人物でないとしても、聖書は「敬わなければならない人を敬いなさい」(7節)と教えている、ということです。
 
 世の人々は時の為政者や政府を思うままに批判し、卑下することもしばしばですが、キリスト者は「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ122)。

 私たちは、神が彼らを任命しているという信仰に立つ必要があります。個人としての政治家に敬意を払うのではなく、神が立てた器として、信仰によって敬意を払う必要があるのです。
 

つづく
 
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