政府は悪を罰し善を奨励すべきである その3
ウエイン・グルーデムの著書からの抜粋翻訳の続きです。新約聖書から政府の役割について見ていきます。
引用元:「聖書に基づく政治」 ウエイン・グルーデム(P80~P82)
ローマ13:3~7(新共同訳)
3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。
5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。
6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。
7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
②国家の支配者は、「悪を行う者には恐ろしい存在」となる(3節)。つまり支配者には、悪を行う者に罰を課すことにより、悪を抑制する役割がある。
③支配者は善を行う者を「ほめる」存在である(3節)。また支配者は、「あなたに善を行わせるために、神に仕える者」(4節)である。これらの聖句は、政府には社会の公益を促進する役割があることを示している。政府は悪を罰することに加え、社会の利益に貢献する善行を奨励し、報奨を与えるべきなのだ。
政府による公益奨励の実例として、公共のレクレーション施設や公園などの設置がある。家族でピクニックができるようにしたり、運動競技の練習や試合ができるようにする。このような善行推進は、教会に免税権を付与する理由づけにもつながる。一般的に、教会は社会に益をもたらし、市民生活の健全化に貢献するからである。また政府は結婚を奨励するために、既婚者への法的優遇や経済特典を設けるべきである。
ゆえに政府の役人が悪を罰し善を奨励するとき、神への奉仕の一環として彼らはそうしているのだと理解する必要がある。彼らに自覚があってもなくても、そうであることに変わりはない。この箇所は、政府が神からの賜物であり、私たちに大きな益をもたらすことを示す有力な根拠となっている。確かに政府の役人や政府自体が悪を行う場合もあり得るが、政府という仕組み自体は大変よいものであり、神の限りなき知恵と愛をもたらすものである。
⑤政府の役人は、務めを果たすことにより「益」をもたらしている。なぜならパウロは、役人たちは「あなたに益を与えるための神のしもべ」だと言っているからだ(4節、新改訳)。ゆえに私たちは政府の活動を、善に報いて悪を罰する働きとして見るべきである。政府の活動は、神の言葉に基づく「益」また「善」なのである。これは政府という仕組みを、神に感謝すべきもう一つの根拠となる。
しかしだからといって、「支配者」が行うことがすべて善であると考える必要はない!バプテスマのヨハネは、ヘロデ王が「行なった悪事のすべてを」責めた(ルカ3:19)。ダニエルはネブカデネザル王に、「正しい行ないによってあなたの罪を」除くよう進言した(ダニエル4:27)。また旧約聖書には、「主の目の前に悪を」行なった王たちの物語が数多く見られる(第一列王記11:6、その他)。それゆえ、神が定めた公正かつ公平な原則に基づいて政府が機能する場合に、政府が「善」を行なっていると考えるべきである。
⑥政府の権威者たちは、悪を行う者たちに神の怒りを執行する。そうすることにより、報復を遂行する。政府は「いたずらに剣を帯びているのではなく」、「神に仕える者」として「悪を行う者に対する神の怒りを遂行する報復者」(英語聖句直訳)の機能を果たすのだ(4節)。「報復者」と訳されているギリシャ語はエクディコスといい、「罰の代行者」という意味である。この概念は、たとえば第一テサロニケ4:6に「主はこれらすべてのことの報復者」(新米標準訳)とあるように、他の箇所におけるこの単語の使われ方によって支持される。またエクディコスとかかわりのある動詞であるエクディケオーの使われ方によっても同様である。エクディケオーは「不正に対して相応な処罰を課す」「罰する」「復讐する」という意味で、黙示録6:10、19:2などで使われている。またエクディコスとかかわりの深い名詞エクディケシスの使われ方からも同じことが言える。エクディケシスの意味は「復讐」「罰」などで、使徒7:24、ローマ12:19、第二テサロニケ1:8、へブル10:30などで使われている。
このことからわかるのは、政府による罰の目的が悪の抑止であると同時に、悪行に対する神の怒りの執行でもあるということである。そしてこれには、実際の罰が伴う。すなわち悪を行う者に対して何らかの痛みや苦役をもたらし、犯した犯罪にみ合う罰を与えるのである。パウロが4節で、政府の権威者のことを「悪を行う者に対する神の怒りを遂行する報復者」と言っている理由は、まさにこの点にある。
このことは、パウロが政府の記述を始めるローマ13:1から3節手前に書かれているローマ12:19とのかかわりにおいて、特に重要である。(パウロが執筆したギリシャ語本文は、章や節で区切られていなかった。つまり12:19は、現在の13章の直近に位置していることになる。)その個所で、パウロは次のように述べている。
パウロは、不正がなされたとき個人的に復讐してはいけないとクリスチャンたちに教えている。むしろ悪を行った者への罰は、「神の怒り」に任せるよう述べている。そしてそのすぐ後のローマ13:4において、悪を行う者に対する神の怒りは政府による罰を通して執行されると説明している。つまりクリスチャンが他者によって何らかの不正を被った場合、公正を求めて政府に寄り頼むことは概して正しいことなのだ。この世の政府は、神が公正をもたらすために用いる手段なのである。
つづく
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