同性愛の牧師は聖書的にありえるのか?
●クリスチャンが同性愛者であり続けることは可能か?
このテーマを扱っているサイトがあるので抜粋翻訳します。
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけまんせん。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(第一コリント6:9~10)
聖書的に見て、同性愛がみだらであり、不自然であることは否めませんが(ローマ1:26~27)、聖書は、同性愛が赦されない罪だとは定めていませんし、クリスチャンは同性愛の誘惑と葛藤することが絶対にないとも述べていません。
クリスチャンが同性愛の誘惑と葛藤することはあり得ますし、クリスチャンになった同性愛者の多くは、クリスチャンになった後も同性愛の感情や願望と葛藤することが往々にしてあります。
クリスチャンと未信者の違いは、罪と葛藤しているかどうかです。(中略)クリスチャンは罪を犯しますし、それがひどい罪である場合もあります。しかし本物のクリスチャンは最終的には悔い改めて神に立ち返り、罪との葛藤を再開するのです。
第一コリント6:9~10には、救われておらずクリスチャンではない人が犯し続ける罪のリストが挙げられています。
同性愛と葛藤していると、その人は救われていないと決めつけられます。誰かが実際に同性愛の行為をすると、その人は救われていないと決めつけられます。
しかし同じリストに挙げられている罪-不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者-については同じような決めつけはなされません。
では、同性愛者でありながらクリスチャンであることは可能でしょうか。それが同性愛の誘惑と葛藤しているクリスチャン、という意味であれば可能です。
しかし悔い改めることなく、積極的かつ恒久的に同性愛のライフスタイルを継続しているのであれば、そのような人が真のクリスチャンであることはあり得ません。
(引用終わり)
●同性愛の牧師はありなのか?
ただし牧師となると話が変わってきます。
第一テモテ3:2
ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし・・・
「ひとりの妻の夫」とあります。これが意味するのは、教会の監督は創造の秩序に従って生きている人であるべきだということです。ゲイのパートナーがいることは、どう考えてもこれに逆行します。
また第一ペテロ5:3には、「(長老は)むしろ群れの模範となりなさい」とあります。新約聖書では「長老」と「監督」は同義語で、どちらも地域教会のリーダーを指しています。べテロがそうであったように(5:1)、牧師も長老であり監督です。
同性愛者として生きることをあえて選択し、同性愛者の牧師であることが神からの召命であるかのように誤解している人が「群れの模範」というのはいかがなものでしょうか。
テトス1章の監督の条件の中には、次のような一節もあります。
テトス1:9(新共同訳)
教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。
同性愛者でありつづけながら、しかも「教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人」であることは不可能です。
●日基教団の誤り
救われているかどうかが定かでなく、聖書が示す牧師の規定にも明らかに反する人を牧師として公認する日本基督教団。
一体、この団体は何を信じているのでしょうか。
キリストの教会であるなら、この世のポリティカル・コレクトネスではなく、神の言葉に立つべきです。
↓お帰りはこちら↓ ↓またはこちら↓