ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

血潮によるきよめ


 
私たちをいつも愛し、また自分の血でもって、私たちのもろもろの罪から、私たちを解放した者黙示録1:5(岩波翻訳委員会訳)
 
 
 聖書には、血という言葉が460回登場する。そのうちの14回は、イエス自身が自らの血に関して述べたものだ。
 
 なぜだろうか?それは、自分の血を流すことによって人の救いを可能にしたからである。
 
 イエスは私たちの罪の代価を支払い、私たちを買い戻してくださった。罪と反逆の代償は死である。
 
 イエスは前に進み出て言った 。「わたしがその死を引き受けます」と。主は自主的にいのちを投げ出し、私たちが受けるべき罰を受けたのである。
 
 イエス・キリストの血は私たちを買い戻したばかりか、私たちを義としてくださった。義とされることには、罪が赦されること以上の意味がある。
 
 私には「あなたを赦します」と言うことはできるが、あなたを義とすることはできない。
 
 しかし神には過去の罪を赦した上に、まるであなたが一度も罪を犯したことがないかのように、義の衣を着せることもできるのだ。
 
 しかしそうするためには、ひとり子の血が必要であった。
 
 
エスさま、あなたの十字架の犠牲のゆえに、心から感謝を捧げます。あなたの血潮が私の罪をきよめ、罪の赦しをもたらしたからです。
 
 
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デイリーディボーション:http://billygraham.org/devotion/cleansed-by-the-blood/