聖書の登場人物による批判語録
クリスチャンは批判してはいけない、と説くブログもありますが、
聖書の登場人物たちは、神の真理のために大胆に批判しています。
ほんの僅かな事例ですが見てみましょう。
●パウロ
ガラテヤ1:8
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
anáthema (from 303 /aná, "up" concluding a process, which intensifies 5087 /títhēmi, "to place") – properly, place up, referring to something pledged (given up) to destruction; a divine curse/ban ("accursed"); an "oath-curse."
アナセマ
厳密には、滅びに渡されているものを指して(呪いなどを)かけること。神による呪い/神による禁止。「誓いの呪い」
と言っているのです。これが批判でなくて、なんだというのでしょうか?
●パウロ その2
ガラテヤ2:11
ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
「立ち向かう」「反対する」「抵抗する」という意味で、
ヤコブ4:7で悪魔に対して使われているのと同じ言葉です。
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。」
anthístēmi (from 473 /antí, "opposite/against" and 2476 /hístēmi, "to stand") – properly, take a complete stand against, i.e. a "180 degree, contrary position";
アンシステミー
厳密には、完全に逆の姿勢、つまり「180度逆の立場」をとること。
パウロは、ペテロが割礼主義者に同調したので、「180度逆の立場」をとりました。
神の真理を否定するような「行為」、これも批判の対象です。
●ステパノ
使徒7:51
かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
上記の言葉は、某ブログが肯定している「批評」などではありません。
批評だったら、ステパノは殺されなかったでしょう。
54節にはこうあります。
「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。」
ただの批評で「はらわたが煮えくり返る」でしょうか?
ただの批評で「歯ぎしり」して怒りますか?
忘れてならないのは、ステパノが「御霊によって」語っていたことです(同6:10)。
マタイ3:7
マタイ12:34
まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
マタイ23:33
最初の箇所はバプテスマのヨハネの言葉で、
あとの二つはイエスさまの言葉です。
二人とも「まむしのすえ」、という言葉を使っていますが、
どういう意味があるのでしょう?
「まむし」の原語は、エヒドゥナーという言葉です。
2191/exidna ("viper") then suggests the venomous desire to reverse what is true for what is false.
エヒドゥナー(まむし)は、正しいことを間違ったことと逆転させる、有害な願望を示唆している。
つまり二人は、
パリサイ人は嘘つきで、有害な者たちだと非難しているわけです。
これは「批評」ではありません。
●まとめ
クリスチャンは、主の真理が曲げられるとき、その間違いを指摘すべきです。
舛添知事の一件は、聖書の真理とは無関係ですが、
世間から批判されて、彼はようやく自分の過ちに気づき、
今後は、ファーストクラスとスイートルームは使わないと、謝罪しました。
聖書の登場人物たちを見習い、
私たちも必要なときには、はっきり批判すべきなのです。
エペソ1:17
このパウロの祈りが、私たち日本のクリスチャンに豊かに成就しますように。
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