「問題は中身」 同性愛問題続編
「聖書をメガネに 本紙の記事執筆について・その4:記事の執筆の目的・動機について」
毎月2回開く編集会議で、聖書をメガネに私たちの記事執筆の目的・動機について何回も確認し続けてきました。その場合、直接指針になっているのは、ローマ12章15節、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」です。
(引用終わり)
問題は、この報道理念のもとに取材され、掲載された記事の内容です。
以下は、今年5月18日にクリスチャン・トゥデイに掲載れた記事の抜粋です。
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(Ⅰコリント6:9、10)
「男娼」と訳される単語「マラコイ」はもともと「やわらかい」の意。そこから派生して「だらしのない」「自制心を欠いた」などの意で、異性間の関係でも使用された。
「男色をする者」と訳される単語「アルセノコイタイ」は、もともとは「男娼」の意味で、男娼は異教の礼拝と結び付いた伝統であったため、非難された。いずれの箇所も、異教(偶像礼拝)との結び付きが批判対象の主眼ではないか、と堀江さんは述べ、「そもそも日本語の聖書の中に『同性愛』という言葉はどこにもありません。アイデンティティーとしての概念も近代の産物なので、ない。ただし、同性愛者の『性行為を否定している』ように見える個所は確かにあります。そもそも聖書には矛盾しているところが多くある。そしてその都度、文脈があって語られています。それを、人を断罪するために引用するのは非常に危ういと考えます」と指摘した。
引用元:
●問題点
tfjtoday兄が上記の記事に対するコメントの中で、問題点を見事に指摘しています。
「「アルセノコイタイ」は、もともとは「男娼」の意味」→アルセノコイタイが男娼として使われている箇所は聖書にはただの一箇所もない。(そもそも使われている場所自体あとは1テモテ1:10しかない。)なぜなら、アルセノコイタイ自体がパウロが作り出したと見られる言葉だからだ。その源は70人訳を見ればわかる。レビ記18:22、および20:13の、「女と寝るように男と寝る」の「男(アルセノス)」「寝る(コイテン)」を合体させたものだ。そこに職業的男娼というニュアンスはおろか、異教礼拝との結びつきもどこにも暗示されていない。
「創世記の記述が同性愛の罪として解釈されたのは中世末とされ」→これもおかしい。Philo, Josephusなど遥か前のユダヤ人たちはソドムが不自然な淫行に走ったと書き残している。
聖書を自らの見解に合うよう自在に操る(そして行き詰ると「そもそも矛盾している」という議論に逃げる)だけではなく、堀江女史はさまざまな事実を少しづつ曲げて語っている。
(引用終わり)
733 arsenokoítēs (from 730 /árrhēn, "a male" and 2845 /koítē, "a mat, bed") – properly, a man in bed with another man; a homosexual.
アルセノコイタイは、アルセノコイテスの複数形です。
アルセノコイテスは、「男性」と「寝床」が合体した言葉で、「男性と性交渉をする男性」のことを意味します。英語の聖書では「同性愛者」と訳されています。
tfjtoday兄の説明は、以下に挙げたサイトのどちらかを参考にしたものと思われ、
かなり勉強されているようです。
聖書解釈学
アルファ&オメガ・ミニストリーズ(ジェイムズ・ホワイト)
注:ジェイムズ・ホワイト氏は、神学校でギリシャ語や組織神学を教える学者です。
●まとめ
私たちクリスチャンは、主にある隣人愛を持って同性愛者に接するべきですが、
聖書の真理を捻じ曲げて、同性愛が罪ではないかのように言うことは、
まったく別の問題です。
クリスチャン・トゥデイは、同性愛の問題に関して、
読者に間違った知識をもたらす記事をすでに掲載しています。
報道理念そのものに問題がなくても、記事にはいくらでも問題が生じ得ます。
報道理念を説明することにより、
同性愛肯定の記事を今後も掲載する言い逃れをしているように
感じられるのは私だけでしょうか?
終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は・・・裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。2テモテ3:1~5
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